昨夜は過去の記事「再開、再開そして別れ」で書いた、今の会社の元取締役との会食だった。
なんとかお礼だけは言えたのでほっとしたためか、かなり酔っぱらったようで帰りはふらふらだった。二日酔いになるか心配だったが朝になったら、普通に朝食を食べれるくらいに大丈夫だった。
そういえば、blogを初めてから何故だかわからないが二日酔いは無い。
午前中にプロジェクト上で指示を受ける立場の人からマスヲの靴が注意された。
今日は朝から1日雨予報のためにビニール製の白いスニーカーで出勤したからだ。
雨なので足元が濡れにくいのでその靴を選択したことを告げるとプロジェクト内ではルール違反なので、今日はなるべく席を立たないように言われた。
プロジェクトに参加した時期は3月だったが、エンドユーザーが商社なこともあってノータイで大丈夫だったため、ドレスコードはゆるいとずっと思ってきたし、そもそも事前にドレスコードの説明がなかったので、マスヲに言わせれば何を今さらと心の中では思っていた。
それにその白いスニーカーには特別な思い入れがあるからだ。
マスヲの母親は実は産みの親と育ての親が違う。母親は長女だったのだが、跡取りのいない身内に養女として出されたのだ。
昔ならよくある話しらしいが、その昔という時代がどれくらいなのかイマイチ、マスヲには分からない。
母親が大変だったのはその後だったらしい。
養女に出された先の親がそれぞれ亡くなったために、その度に親が後妻と後夫を取ったために母親とはまったくゆかりが無い夫婦が親になり、その夫婦が1男1女を儲けたために母親はまったく血のつながりのない4人の家族と5人で過ごすことになったのだ。
マスヲがそのことをはっきり知ったのはかなり大人になってからで、育ての親と産みの親が違うことだけを最初に知ったのだが、そのことでさえ中学校くらいの時だったと思う。
母親本人から聞いたことはなく誰から聞いたのかも覚えていないが、そのことを知ってからのしばらくはそのことに触れることはタブーのように感じていたし、大人になってから弟とたまに外でふたりきりでお酒を飲んだ時にお互いに同じような気持ちだったことを話し合ったことがある。
マスヲの実家から近くのところに母親の産みの親は住んでおり、その当時マスヲは叔父と叔母と呼んでいた。
そして産みの両親にも1男1女がいるのだが、血の繋がりのある叔父と叔母のことをファーストネームのさんづけ呼んでいたし、叔父はまだ生きているために今でも同じ呼び名で呼んでいる。
育ての親の両親である1男1女の方たちもファーストネームのさんづけでずっと呼んでいる。
簡単に言うとマスヲには血の繋がりはともかくとして、母方に2組の祖父祖母がいて、4人の叔父叔母がいるといいうことだ。
母親はある時期までは産みの親と交流を続けていたので、マスヲも自転車で行ける距離だったためによく遊びに行って可愛がってもらっていた。
だが、あるときに産みの両親と母親が絶縁してしまう。そしてマスヲと弟にも遊びに行かないように強く言われたのだが、そのころはまだはっきりと産みの親と認識していなかったので、どうして叔母の家に行ってはいけないのかすっきりしなかったが、母親の言いつけには従っていた。
その後、しばらくは母の産みの親と会うことはなかった。だが、高校生くらいのころだったと思うが、ある日道でバッタリと母の産みの母親と会った。
彼女はびっくりしながらも母親への誤解を解いて欲しいというようなニュアンスを伝えてきたが、マスヲは自転車だったこともあり、ろくに話も取り合おうとせずにその場を立ち去った。
今思うと何でそんなことをしたのかと考えたりするが、マスヲはまだまだ子供だったのだろう。せめて話しくらいは聞いてもよかったのではないかともたまに思い返すこともある。
母親の産みの親と直接会ったのはそれっきりだ。
母親の産みの親は夫婦で靴屋を経営していた。
両親がそれぞれ亡くなった後は母親の血の繋がった弟である叔父が両親の住居兼店を取り壊す判断をした。
その時に母親は取り壊す前の片づけを手伝いに出かけていた。
そしてそのときにいくつかの傘と靴を持ち帰ってきたのだが、その中からマスヲには今日怒られた白いスニーカーを母から分けてもらったのだ。
母親がどういう気持ちで店を片付けて、その靴をマスヲに渡したのかはわからない。
だが、マスヲにとっても形見でもあるし、その靴を履くことが何か特別な気がしているのでよく履いているせいか白い靴が少し黒っぽくなってきている。