淡白マスヲのたんぱく宣言 

アラフィフのオッサンの雑記。夜遊び、芸能ネタ、日常的なことから社会的なことまでを、広く浅く、そして薄い視点で書くので気楽に読んでください。

形見

 今日の午前中にやっと先延ばしにしていた母親のパソコンの問い合わせに対応した。日曜日に頼まれて今日が木曜日なので4日もかけたことになる。
 仕事も休みなのにすぐに対応しないなんて、どんな親に育てられたのだろう? 30歳過ぎたら親のせいにするな、という言葉も聞いたことがあるので、やはりマスヲが単に怠け者なだけだろう。

 実はもうひとつ自分の中で先延ばしにしていたことも今日行った。亡くなった父が使っていたパソコンをマスヲが引き取ることだ。かなり前から母親と弟の了承は得ていたのだが、こちらも何となく先延ばしにしていた。

 父の職業はフリーのメカニカルエンジニアでマスヲが物心ついたころには数人の人間を使い、街中で事務所を借りて仕事をしていた。そのころは製図板で図面を書いていたので、事務所内にはいくつもの製図版やコピー複合機などが所狭しと、置いてあったのが懐かしい。

 マスヲが今の仕事をするころには、父はパソコンでCADソフトを使用して仕事をしていた。
 そのころには父親の事業も身の丈にあった規模にしていた。自宅の一部を仕事部屋として、ひとりで仕事を続けていた。
 2度目の癌の手術をしてからも時折お客に頼まれて仕事を受けていたのには、今思い返しても敬意を払わらずにはいられない。

 CADソフトを使用するということは当然、パソコンを使用する。たまに父親にパソコンのトラブルの相談を受けると、こちらが面倒に感じることもあった。そんな時には父への態度にも出ていたのか、もっとわかり易く丁寧に教えてくれと言われたこともあった。

 マスヲが今の職種を選ぶ前に悩んでいたことがある。
 父にはあまり深刻な相談をしたことがなかったと記憶しているが、次のようなニュアンスな答えが返ってきたことが印象深かったので心に残っている。
『仕事には大抵2種類しかない。物をつくることか物を売ることだ。』
 この言葉がずっとマスヲの心に突き刺さっていたのだろう。今でも自分にはエンジニアとしてのセンスがあるとは思っていないが、父の言葉がいくらかの心の支えになっている。

 父のパソコンを使う気持ちになったのは、数年経ってやっと父の死を受け入れたということなのかもしれない。