淡白マスヲのたんぱく宣言 

アラフィフのオッサンの雑記。夜遊び、芸能ネタ、日常的なことから社会的なことまでを、広く浅く、そして薄い視点で書くので気楽に読んでください。

未来が過去を変えるという思考について【『マチネの終わりに』を読んで】

 平野啓一郎の『マチネの終わりに』を2回読んだ。マスヲの本の読み方は精読派ではないので、同じ小説を繰り返し読んだ作品は少ない。

 マスヲが本を読む基準として3人ルールというものがある。知人、友人の3人以上に勧められた作品はマスヲの積読リストに加える。
『マチネの終わりに』は仕事で知り合った友人から勧められたこと。テレビ番組「アメトーーク!」の前回の読書芸人で又吉直樹若林正恭が勧めていたことで気になっていた。
 本屋で手に取ってから購入するかを決めようと考えていたら、本の帯を書いていたのが石田ゆり子さんだった。彼女と同じ本を読むということを共有できることだけでも嬉しくなってきて買うことにした。マスヲは彼女が20代のころからのファンだからだ。

 この本を読むまでは著者の平野啓一郎が嫌いだった。失礼な話だが彼の著作を1回も読んだことがなかったのに、だ。
明確な理由は無いと思う。何かを嫌ったり好きになったりする理由を理屈で説明するのは難しいと感じているが、あえて考えてみると『日蝕』で芥川賞を受賞した一連のマスコミの報道によって、彼がお高く留まっているというイメージをマスヲが勝手に持ってしまったからだろう。

 1回目読んだ時の読後感は素晴らしいものだったが、冒頭から前半までは作者への負のイメージを抱きながら読んだため、正しく作品を感じることが出来ていないと判断したために、もう1度すぐに再読することにした。負のイメージを持っていない状態で。

 この作品にこのタイミングで巡りあってよかったと思う。そして自分が40代になることも肯定的に考えられるようになった。もし、この作品を20代、30代で巡りあっても何も感じないどころか、作品を読み切ることができなかったかもしれない。

 初回読んだ時は場面設定や登場人物が小説全体の長さに比べると多いような気がした。だが、再読してみると少なくとも登場人物は多すぎることはないと感じた。
 場面設定については作品にどこまで何を盛り込むかにもよると考える。作者の最近ツイッターのフォローをはじめて社会的な問題に興味を持っていることがわかってきたので、そのことに比例して場面設定が増えている気がした。
 マスヲも社会的、時事的な問題をエンターテイメントで扱うことはどちらかというと好みだが、この作品についてはもう少しだけ抑え気味でも良かった気がする。
 40歳前後の恋愛小説なので主人公の2人やそのまわり登場人物の生き方や人生哲学などにもう少し寄せて書いても良かったのではないかと考えている。

 食事のシーンが何回か出て来るが、その時に出て来る料理があまりおいしそうに感じられなかったが、それは演出なのかそれとも作者自身があまり料理に興味がないのかはわからないが、食い意地が張っているマスヲにとっては気になった。
 何故ならこの作品で扱われるクラッシク音楽についてマスヲは造詣がないし、興味がなかったのに関わらずその素晴らしさが伝わってきたからだ。
 この小説とタイアップしたCDが発売されているらしいので、そちらにも興味が出てきたくらいだ。

 この小説は大人の恋愛小説なのに主人公2人のベッドシーンが出て来ない。初回に読み終わった時に後から気がついたが、大人同士の恋愛がそれでも成立するように表現されているのが非常にさわやかだ。

 また、恋愛は相手に対するコンプレックスを抱くことがひとつの条件であると考えているが、いい大人が人にコンプレックスを抱くことはどうしても少なくなる。若い時であれば人はコンプレックスを持ちやすいので、それに比例して恋愛を描くのも容易いと考える。
 そのために主人公2人の設定がハイソになっているが、ヒガミ屋のマスヲでさえもその点は全く気にならなかった。

 この作品を読んでいる時に自分の感情にも大きな変化があった。その変化とは自分が心の中で気になっていた対象の異性が変わったことだ。
 エンターテイメントの作品によって自分の内面が影響を受けることはよくあることかもしれないが、自分の心のベクトルの向いている相手が変わったことは初めてだったので、そのときにはびっくりしてしまった。

 また、初回読んだだけでも自分が書いたあるblogの記事がこの作品に影響を受けたていることを後から自分で読み返して気がついた。
hatehatehahaha.hatenablog.com
 最後にこの作品に置いて貫かれている、未来が過去を変えるという考えについては、今まで考えたこともなかった。
 だが、これからの人生においてその思想を抱きながら生きていくことができれば、自分の過去の過ちについてさえも前向きに捉えられる可能性もでてくる。
 強引な前向き思考については辟易するが、この作品で感じたような前向きであればマスヲでさえも受け付けることが出来た。