ここ数年、別れがある度に考えることがある。別れた人が消えたあとに何が残るかを。父親が亡くなったことがきっかけで考えるようになったのかもしれない。
去っていった人たちが自分に残してくれたものを無意識に探している気がする。遺物は物理的なものも、物理的でないものもあるだろう。形のあるものはまだわかりやすい。
形にならないもののいくつかは見つけられないまま、日々過ごしているのかもしれない。
遺してくれたものは必ずあるはずなのに、それに気がつくことができないと空しいし、儚い気もするが仕方がない。それは受け取り手の感性にも委ねられるのだから。
たとえ、形がないものをなんとか見つけることができたとしても、記憶に残し続けていくのも難しいだろう。誰でも毎日の暮らしの中で大量な情報が入ってくる。どうしても記憶のいくつかは意識しないうちにこぼれ落ちてしまうはずだから。
それでも、自分の中で色褪せていかない記憶や思いがいくつかはあるし、それらのお陰で去っていた人たちのことを懐かしく振り返ることができる。
ここ数日、違う観点で発想することができるようになってきた。自分も他人から見れば通り過ぎているはずで、彼らの前を通り過ぎたあとに何かを残しているはずだということに。
他人が残していったものを自分が見つけられないように、自分が意図したもの、しないものに関わらず置いていったものを発見してもらえないこともあるだろう。見つけてもらうまでに時間がかかってしまうこともあるだろう。
歳を重ねるうちに人に伝えたいことが、いかに人に伝えられないかを痛感することが多くなってきた。結婚してからは、その思いに拍車がかかったせいで小さく絶望していたこともあった。
だが、発想の転換によって当たり前のことをよい意味で再確認できるようになってきた。自分が誰かとすれ違う。すれ違ったうちの何人かは自分の影響を受けているということに。こちらが気がつかない場合もあるだろう。
そう考えると、自分が誰かの前をただ通りすぎるだけでもひとつの自己表現になるのではないか。
絵や写真、音楽や映像などを何かアートスティックな活動をしなくても、日々普通に暮らしているだけで何かを表現できていることになる。
人はお互いに誰かの前を通り過ぎるのだから。明日もきっと。