淡白マスヲのたんぱく宣言 

アラフィフのオッサンの雑記。夜遊び、芸能ネタ、日常的なことから社会的なことまでを、広く浅く、そして薄い視点で書くので気楽に読んでください。

ゴミ捨て場の胡蝶蘭

 今朝も通勤途中に錦三で朝の散歩をした。昨日くらいから、朝でも多少汗ばむような陽気になってきた。
 歩道脇にあるゴミ捨て場が散らかっていたので、気になって観察していると、思いがけないものが捨ててあった。それは鉢植えの胡蝶蘭
 お店の開店か、店の従業員の誕生日に贈られたものだろうか。高価な花でも散乱したゴミにまみれていると、みすぼらしく見えた。もし、プレゼントをした人がその光景を見たらどのように思うのだろうか。

 かつて生花の業界で仕事をしたこともあってか、女性に花をプレゼントすることが、他の男性よりもハードルが低い気がする。街中でも花束を持って歩いても恥ずかしいとも思わない。だが、そう簡単には女性に花をプレゼントしない。やはり、女性に花を贈ることは自分にとっても特別だからだ。
 これまでに、何人かの女性に花束をプレゼントしたことがある。その経験からあることを知った。全ての女性が花を好きなわけではないことを。

 プレゼントしたときに一番リアクションが悪かったのが、何を隠そう自分の妻だ。
 独身時代にプレゼントしたことがあるが、そのときの反応の悪さから彼女には二度と花を贈っていない。

 朝見た、捨てられていた胡蝶蘭。おそらく贈答品だと思うが贈った人はどのような気持ちを込めていたのだろうか。仕事や致し方ない人間関係に、否応なしにプレゼントすることになったものだろうか。形式的なお中元やお歳暮のように。
 無残に捨てられていた鉢植えを見ると、どうしても負のイメージを抱いてしまう。

 ただ値段が高いからという理由だけで、やり取りされる贈答品も多いだろう。送り主の心を込める場合もあるだろうが、そうでない社交辞令的なプレゼントにも用いられることも少なくないはずだ。

 高価な贈答品は生産や流通に手間がかかることが、価値が高まるひとつの理由だろう。
 生産者や流通に関わる人たちは手間と気持ちをかけて、消費者に届いているはずだ。
 だが、消費者が彼らの気持ちを踏みにじるようなことをしていることも少なくないのかもしれない。
 そんな状況を彼らが知ったらどう思うのだろうか。自分が彼らの立場だったら、いい気はしないだろう。

 今日の仕事中、打ち捨てられた胡蝶蘭のことを時々思い返していた。帰宅時に気になって、朝見かけた場所を通り過ぎた。しかし、鉢植えを目にすることはできなかった。
 あの胡蝶蘭はどうなったのだろう? 誰かの心象に残っているのだろうか。少なくとも自分の心には、まだ引っかかっている。