昨日は同人誌の例会だった。その場で次号の同人誌を受け取った。その誌面の中には、自分の同人誌への復帰作について、ある男性の同人が批評を寄稿してくれた。
その同人は、創刊のころから同人だ。ただ、それだけでなく長い間、校正も請け負ってくれている。
自分の文章作法のレベルを考えると、今まで彼にどれくらいお世話になっているのだろうか。
もちろん、自分は書き手としても読み手としても彼には敬意を払っている。
そんな彼が自分の作品に対して、かなり好意的な文章を書いてくれたのは素直に嬉しかった。だが、性分なせいか褒められるのに慣れていないいか、何回読み直しても恥ずかしい。
自分の作品が取り上げられた例会では、適切ではあるけれども自分にとっては厳しく感じる言葉も、他の同人からは頂いた。だが、口にした言葉は発した瞬間から消えていくが、書いた文章は形として残る。
そのせいか、口にされた欠点よりも文章化された長所の方が嬉しい。後者の方が数少ない意見だとしても。
むかしから仲の良い友人が先日、このblogについての感想をメールでくれた。ふとこれが不惑というものかと思った、と。
一昨日も、自分は感情的になったばかり。月日ばかりは過ぎ、不惑と呼ばれても仕方がない年齢になったが、惑いが無くなっていることはない。自分の性格上、惑いが無くなるような時期が訪れることはないかもしれない。それが当たり前のような気もしてきた。
それでも、自分が少しは大人になった自覚はある。セルフコントロールは出来なくても、自分が今どれくらい感情的になっているかを多少は客観視できていると感じることが増えてきたからだ。
フィクションである小説でも、ノンフィクションであるこのblogでも、今感じている気持ちや感覚を大事にしながら、そのまま文章にすることに価値があるように思えてきた。
今の自分が揺れていること、戸惑っていることを素直に書く。もちろん読者のことを考えてある程度のバランスを効かせることも必要ではあるはずだが。
自分が書いていること、伝えたいことが読者に全て伝わっている訳ではない。自分の拙い文章技術を考えれば当然だ。
だが、ときには考えていないような人に対して自分の思いが伝わっていたり、自分が予想していたよりも自分の気持ちが理解されていたりすることも、たまにはある。
書き手冥利に尽きるが、自分の書いた文章を読んでよかったと言われることも稀にある。
そんな奇跡を少しでも増やすために、今後も文章を書き続けたいと改めて思い直した。