東京医科大学の女子受験者減点のニュースは、自分が思っていたよりも波紋を呼んでいる。
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Hatena Blogでもこのニュースについての憤りを書き綴っている記事も目にしたし、その記事に対してコメントもさせてもらった。
juju-rascals.hatenablog.com
この記事を書いた人物は自分が大学受験で救われたと、書いている。その根拠は『大学受験が、「誰もが同じ基準で戦わせてもらえるフィールド」』であるために、自己努力が正当に評価されるためだと、考えているようだ。
自分も一時期までは同様な考えだったので、彼女の憤りにほんの少しだけ、近づけた。彼女と違って大学受験で負け組にも関わらず。
ちなみに、自分は大学受験では浪人まで親にさせてもらったのだが、結局どの大学にも合格することができなかった。
自分の能力不足と自己努力が足りなかったことが自分を追いつめた。高卒という最終学歴をコンプレックスとして長い間、抱えて生きていくことになったが、今ではそのコンプレックスをほぼ克服できている。
自分の学歴が気になるのは、魅力的な女性に出会った時に、その女性が大学卒か女子大生のときぐらいだろう。
自分もかつては大学受験と各種の資格試験だけは、『公正で客観的な評価が行われている』と信じていた。
だが、あるころからその考えが変わりはじめた。自分が理想としていた生き方が無理だと、気がつきはじめたころからだ。
自分なりに目指していた理想とは、理性的に生きること。よくも悪くも感情的な自分にとって、常に理性的であることは憧れだったからだ。
常に理性的な人間なんて、居ないのではないだろうか。また、そんな人間が形成する社会であれば、当然のように『公正で客観的な評価』もされないはずだ。
もちろん、理想を追うことは必要だし、不正は許されるべきではないとも考えているが。
ただ、人間本来持っている、負の性とも言うべきことから、起こってしまうことから目を反らしてしまうのは、どうかと個人的には思っている。
東京医科大学といえば、文科省の官僚、佐野太容疑者が息子の大学合格に便宜を払ってもらったことが世間を騒がせたばかりだ。
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合格定員が変更されなかったのであれば、容疑者の息子が合格した代わりに、本来の合格者が1人不合格になったことになる。
どちらかというと、こちらのニュースの方が自分は気になっている。上記のニュースと同様に許されるべきではないが。
自分は意識も低くて怠惰な人間だ。また、ゆるく生きていくことを、モットーにしている。
そんな自分でも、ある小説に書かれている次の言葉が、初めて読んだときから記憶から離れない。
『不公平な社会と言うのは逆に考えれば能力を発揮できる社会でもある。』
村上春樹著、『ノルウェイの森』より