淡白マスヲのたんぱく宣言 

アラフィフのオッサンの雑記。夜遊び、芸能ネタ、日常的なことから社会的なことまでを、広く浅く、そして薄い視点で書くので気楽に読んでください。

文章の行間や視点に人格が現れるならば写真には?

 文章には書いた人の人格が現れるというのは、自分はわりとよく聞く話。同人誌に所属していることもあるし、自分のまわりには読書好きが多いこともあって。
 文章の中でも人格が一番出るのは行間だろう。文章をあまり読み書きしない人に『行間』のことを説明して欲しいと言われても、上手く説明できないのが悩ましいが。

 20代のころ、自分が小説やエッセイの書き方をカルチャーセンターで習っていた当時、講師から言われて印象に残っていることがある。文章は努力を続ければ上手くなっていくが、それ以外のものは本人のセンスだと。
 そのころの自分の文章レベルはひどく、講師に文章の「てにをは」的なことは、よく注意されていた。
 だが、センスだけはお世辞だったかもしれないが、時折褒めてもらっていたので、都合良く真に受けていた。

 プロ作家であっても、同じ同人誌の同人の文章であっても、自分が読んでいて心地よいものかどうかは、はっきりと別れる。
 そのせいか、自分の読書は好きな作家を中心に読む傾向が強い。きっと、文章から伝わってくる作者の人格に好意を抱けるかどうかが、自分にとっては重要なのだろう。

 今から10年ほどまえに、400床ある総合病院を中心とした、医療法人に勤めていた。確か部署は総務部の情報課だった。上司は院長の次女で20代。だが、自分にとってはストライクゾーンから完全に外れていた。
 法人内の一部の職員からは、彼女はマトリョーシカとかげで呼ばれていた。自分はマトリョーシカを知らなかったので、ネットで調べた瞬間に納得もしたし、笑えて仕方がなかった。

 医療法人では月に一度、機関誌を発行していた。当然、文章だけでなく写真もそれなりの数を掲載していたので、日ごろから法人内の日常や、イベントなどで写真を撮影するのも自分が所属していた部署の担当だった。
 写真を撮っていたのは課員の2人。だが、メインはマトリョーシカの腰巾着と言われていた、主任だった。年齢は自分より二歳年上だったが、マトリョーシカとの男女の関係を訝しげに思っていた職員もいたほどの男だった。
 たとえ彼ら2人が手を繋いでいる姿や、腕を組んで歩いているのを見掛けても、誰もうらやましいとは思わないだろう。

 法人が経営している老人ホームで夏祭りが毎年催されている。ある年の祭りで主任が写真を撮影した。
 主任がいない時に、そのいくつかのスナップをもう1人の撮影係の課員が酷評しだしたのだ。主任の嫌らしい人間性が出ていると。
 自分も主任を嫌っていたが、彼の方がより嫌っているのを日ごろから感じていた。彼はただ、主任のことを悪く言いたかったことが一番だったとは思うが、彼には写真のことを語る資格がそれなりにあるとは思っていた。
 主任よりも、彼が撮った写真に良いものが多かったからだ。

 自分が写真撮影に興味を持つようになった今、時々考える。文章にとっての行間は、写真では何に当たるのかを?
 写真も人の心を打つことがある以上、カメラマンの人格や気分が現れることは、当然なのだから。

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同じRAWデータからの現像でも、人が違えば作品の味わいは変わります。左は自分の師匠が私のデータを現像してくれました。