昨日は朝から撮影の仕事。秋空の下、二日続けてカメラを触ったことになる。
ただ、同じようにカメラで人物を捉えても大きな違いがあった。その違いとはお金を払って撮ること、お金をもらうために撮ることだ。
副業として撮影の仕事を始めた日には、何度も仕事を投げ出して途中で帰ろうとしたし、最初の数週間は週末が嫌で仕方がなかった。
それが、自分で決めたこととはいえ。
数ヶ月働いていなかったため、恥ずかしいが貯蓄がほとんど無くなったのにもかかわらず、最近の自分は物欲にまみれている。
そのためにお金が欲しいのは確かだが、別に撮影の仕事の他にももっと効率よく楽にお金を得る方法は考えられたし、考えていた。
人間的に疑問を持たざるを得ないような社長から理不尽な言動だけでなく、叱責を受けながら働いても時給で1,100円しか得ることができないからだ。
今日は7時間働いたので、得た対価は7,700円。アラフィフの男性が休日に丸一日働いて得る金銭としては決して多くはないだろう。 それでも先週くらいから突然、撮影の仕事が嫌ではなくなった。もっと言うと、心に張りのようなものが出てきた。
お金以外のものを何か、得ているような気がしてならない。
撮影の現場に立つようになってから、仲の良い友人の一部にはプロカメラマンのキリになったことを冗談半分に伝えていたが、最近ではテレが幾分かは減ってきた。
プロとアマチュアの違いについてより考えるようになるに従って。自分なりのそのことについての意見が少しは人に伝えられるようになってきたからだ。
プロとアマチュアの差は撮影した写真でお金を得ること。
撮った写真の上手い下手は関係ない。
自分ともう一人の学生アルバイト以外の二人はキャリアをそれなりに積んだバリバリのカメラマン。だが、彼ら全員の写真が文句なしに優れているかを聞かれれば、正直自分はYesと答えられない。
友人の何人かには撮影を楽しんでいるアマチュアカメラマンが居るが、少なくてもそのうちの一人の撮影技術の方が優れているくらいだ。撮影に関する理論においても。 自分なりにプロとアマチュアの違いについての答えは、最低限の期待に応えること。野球において打者に例えるならば、ホームランは期待されていないし、プロ監督であるならばいかなる場面でも打者にホームランを期待しては駄目だ。
アマチュアの打者ならば打席に立つ度に強振し、そのうちの何回かがホームランになればいいのかもしれない。
だが、プロならば塁上にランナーが居なければ出塁すること、ランナーが居るのならば次のベースに進めることがプロの仕事のはず、どんな手段を使ってでも。
まぐれのホームランは必要ないのだ、例え本人が打ちたくても。それよりも強振して三振するリスクを避けなくてはならない、プロであれば。
派手なことをするのではなく、地味なことを積み上げること。それがどんなジャンルでもお金をもらうことの条件のひとつであることに思えてならない、今日このごろ。本業のシステムの仕事においてでも。