たった一日のことをこんなに愛おしく思えるなんて不思議な気がする。しかも、その理由が仕事だったから。
今日という日が来るのを昨日から楽しみにしていた自分も居た。
幼馴染みから遊び人と言われる自分には似つかわしくない気はするが、100パーセントの本音だ。
今日は昨年の十二月から始めた、灯油の巡回販売の最終日だった。仕事を無事に終えて入浴してから、この文章を書いている。
岐阜市の外れの墓地の前で、いつもの土曜日のようにローリー車を停めた。
8:00になったのを確認してから運転席の上部に備えてあるmp3プレーヤーにSDカードを差し込んで、録音されたものを再生した。
手順はいつもと同じだったが、センチメンタルな気持ちが襲ってきたのに自分は戸惑った。
童謡の『たき火』が流れ出したのはいつもと一緒だったのだが、アナウンスされていた言葉がいつもと違ったから。
走り始めて5分も経たない場所で最初のポリタンクを見つけたのはいつものこと。
だが、給油した量だけが違った。18リットルではなくて、9リットル。
今日、灯油を買ってくれた常連のほとんどは知っていてくれていた。自分が巡回販売するのが今日、最後だということを。
自分が彼らにお礼を込めて挨拶をしたかったように、彼らも自分と何かしらのコミュニケーションを取ろうとしてくれたのが自分に伝わってきた。
その形の現れのひとつが、残量が残っているポリタンクを玄関先に出してくれたことだと慮っている。 今週は三日間、在宅勤務をしたために溜まっていた鬱憤が午前中だけで全部晴れたような気がした。雨上がりのためにきれいに見えた山波だけがその理由ではない。
表札や住宅地図で名字はわかる。だが、それ以上のことはわからない他人が、自分をアテにしてくれていた。お客のほとんどは自分の名前すら知らないのに。
そんな素晴らしい経験がお金をもらって味わえるなんて、自分の本業と乖離し過ぎていて、奇跡に近いようにも思える。
今日、一日だけでもいくつもの物語があった。
何人ものお客がハンドルを持って去りゆく自分を見送ってくれた。
何度か落涙しそうになった。いや、実は何回か涙が流れてしまった。それは歳だけのせいではないと思う。
この四ヶ月、いいことばかりではなかった。
運転中に危ない思いも何回かしたし、今シーズンは雪遊びにもあまり行けなかった。
五十肩が酷くなった一因は、ポリタンクを持って走り回った影響もあるだろう。
それでも、引き換えに得たものの方が価値はあっただろう。少なくとも今はそう思っている。
今日の記事のタイトルのような気持ちが、自分の中に少しでもあるのは事実。
そのタイトルは引用している。『たき火』をバッグにアナウンスされていた一節から。