副業先の男性社員があるパート女性のことを時折、ニックネームで呼んでいる。それは、せいこちゃん。
彼がそのニックネームを使いはじめたときには、それほど特別なことを思わなかった。
だが、昨日彼が彼女をその名前で呼んだときに、自分は笑えてきてしまった。
せいこちゃんと言われれば、松田聖子しか連想しなかったが、初めて違う女性のことを連想してしまったからだ。その女性はお笑いコンビ、『尼神インター』のボケを担当している狩野誠子。
自分がその連想で笑えてしまったので、その場に居た従業員に話を振ったところ、ある学生アルバイトのリアクションに驚いた。二十歳そこそこの専門学生は『尼神インター』のことを知らなかったからだ。
彼はまだ入店して一か月ほどしか経っていない。歳も離れているので知らないことの方が多いのだが、彼のある口癖が気になっている。テレビを見ない、というセリフが。
若者のテレビ離れを耳にするのには慣れてきたが、実際に接した相手にそう言われると違和感を覚えて仕方がなかった。
自分も20代のころ、あまりテレビを見ない時期があった。その代わりに本ばかり読んでいたが、今思い返すと恥ずかしい。
ただ、それが格好いいとことだと勘違いしていただけだから。
むかし、ある同僚にテレビを録画で視ると暮らしが変わると言われたことが印象に残っていた。
一昨年、自分もケーブルテレビ会社のチューナーに外付けHDを繋げて録画を始めてみた。すると、確かに都合のいいことが増えた。
昨年、またHDを1台買ってテレビ本体に繋げた。これによって同じ時間帯に地上波、BSとCSそれぞれの番組を同時に録画できるようになった。
初めはテレビに時間を縛られないメリットを強く感じた。見たい番組だけを取捨選択して時間を有効に使えることを。
だが、そんなテレビとの付き合い方の弊害に気がついた。気が付くだけでなく、怖さも覚えはじめた。
録画でしか見なかったら、テレビの情報メディアとしてのある優位性を放棄していることに。
テレビとラジオは受け手が受動的なのが特徴だ。逆にインターネット、新聞、雑誌などは受け手が能動的でないと情報を集めることが出来ない。よって、どうしても自分に興味のある情報しか集めないリスクがつきまとう。
一方、テレビとラジオは送り手がコーディネートした情報をそのまま視聴するしかない。それがある意味ではメリットではないのだろうか。
自分が好む情報ばかりを吸収していたら、価値観やものの見方が偏ってしまうと自分は思う。インプットが限定されていたら、アウトプットも当然それに伴って方向性が決まってしまうはずだ。
人はそれぞれ優れた個性的な感受性や思考力を持っている。だが、限られた情報しか取得しなければ、その個性により磨きをかけた生き方をするのは、難しいのではないのだろうか。