今の現場になってから1週間が過ぎた。現場は丸の内のオフィス。栄の駅から毎朝歩いて通勤している。雨さえ降らなければ、散歩にちょうどいい距離だからだ。
今朝は雨上がりの空が広がっていた。大津通を越えて錦三丁目に入っていく。暗くなってからは喧騒を感じる街も、通勤時間はのんびりとしている。
ビルの谷間から空を眺めると、カラスが一羽横切った。雨上がりの済んだ空のせいなのか、カラスまでが微かだが爽やかに見えた。
錦の繁華街を歩いていると、時折あることを思い出してしまう。20代のころに好きだった女性のことを。
彼女と出会ったとき、自分は女性不振の真最中だった。二十歳のころにバイト先で知りあった女子高生にこっぴどく振られたことがきっかけだった。
人づてに彼女が自分のことを次のように言われたことを聞いて傷ついていた。モテない男を遊んでやっただけ、と。
その言葉だけでもかなり落ち込んでいたのだが、よりによって自分で自分にとどめを刺してしまったのだ。
友人に勧められて読んだ小説によって、世の中の女性全てが信じられなくなったし、敵意さえ感じるようになってしまった。
自分をそれほどまでに追い込んだ作品は、谷崎潤一郎の『痴人の愛』。自分の心をそこまで揺さぶったということは、名作と言われるだけのことはあるだろう。
ちなみに、自分はそれ以来再読していない。また、女性不振になってしまったら、人生がつまらなくなってしまうからだ。男性で女性不振になりたい人がいたら、『痴人の愛』を手に取ることを勧めたい。
女性を完全に敵視していた自分を変えてくれた女性とは、錦のキャバクラで巡り会った。彼女はキャバクラ嬢だった。昼間は大学に通っていて、夜はキャバクラでアルバイトをしていた。
それまでに付き合いなどで何度もキャバクラで飲んだことはあったが、心が一ミリでも動いたことは一度もなかった。店で人気がある女性が隣に座っても、短いスカートで足を自分の足に摺り寄せてきても、だ。
だが、その女性と会った瞬間に何もかもが変わってしまった。第一印象でまず、心穏やかなものを感じた。
今まで何かに取りつかれていたものを、取り払ってくれたような感じだ。呪いを解いてくれたのか、それとも新たに魔法をかけてくれたのかは分からなかったが。自分の心の奥底にあって蓋をしていたものを、彼女は気がつかせてくれた。
結局、自分は彼女のお客の中の1人から、抜けられなかった。久しぶりだった自分の恋は、当たり前のように終わりを告げた。
だが、彼女に出会ったことを今でも全く後悔していないし、感謝すらしている。彼女に出会わなければ、女性好きということに素直になるのがもっと遅くなったかもしれないし、場合によっては一生気がつかないフリをしていたかもしれないからだ。
モテなくても傷ついたとしても、人を想うことから逃げないでいたからこそ、いろいろな経験が出来たはずだ。
妻とは決して仲が良いとは言えない関係になってしまったが、一度は結婚も出来たし娘にも恵まれた。
谷崎潤一郎の名作を読んだ直後に、今の自分はきっと想像できなかっただろう。