淡白マスヲのたんぱく宣言 

アラフィフのオッサンの雑記。夜遊び、芸能ネタ、日常的なことから社会的なことまでを、広く浅く、そして薄い視点で書くので気楽に読んでください。

アウトプット

 今日から6月。ようこそ、6月。今月は自分の誕生月だ。もし、可能であれば昨年の今頃の自分に、今の自分を教えたいと思える、今日このごろ。
 昨年の今ごろは、ある別れに対して怯えていた。自分にとって大事だった人と会えなくなることがわかっていたからだ。
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 別れの直後しばらくは、実感がなかった。一緒に撮った写真や別れる際にもらったメールを時折見ながら過ごしていた。
 最後にかけてもらった言葉を思い出すだけで、励まされるような気持ちになったことも一度や二度ではない。
 20以上も年下の女の子に、会っているときも会っていないときでも、大事な何かを常にもらっていたような気がするから不思議だ。

 彼女と会えなくなってもうすぐ1年。月並みなことだが、思い知らされることがある。自分にとって価値があるものの多くは、無くなってから初めて気が付くことが多いということだ。それが形のあるものであっても、そうでないものであっても。

 彼女と巡り会ったこと。そして会えなくなったからこそ、文章を書き続けることが出来ている気がする。その文章とはこのblogであったり、同人誌に発表した小説だったりする。最近では自分の書いた文章が友人の仕事の手助けになるような、得難い経験もした。
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 さきほど、radikoのタイムフリー機能であるラジオ番組を聴いていた。その番組のパーソナリティがアウトプットし続けることでしか生きられない、と話していたのが印象的だった。
 自分もそんなタイプであるような気がするがパーソナリティの彼ほど、質の高いアウトプットをしてきたわけではないし、これからもそうだろう。
 子供のころからお喋りで騒がしかった。システムエンジニアになったころは、静かにするように注意を受けたことも少なくなかった。1人で騒々しくしているだけでも、ある種のアウトプットだと自分は考えている。

 だが、数年前から仕事中の口数がめっきり減った。自分でも驚くくらいに。お喋りというある種のアウトプットが減ってきた。
 それでも生き続けているだけで、人は最低限の自己表現をしていると考えているので、自分から何かしらを受け取ってくれた人はいただろう。

 自分は彼女との出会いを通して、アウトプットされるものが確実に変わった。
 彼女はどうだろう? 彼女の前から居なくなった自分。やはり、彼女の人生の中では通り過ぎていった多数の中の1人だったのだろうか。
 それでも、ほんの少しでも彼女の自己表現に影響を与えることが出来ていたら、そんな幸せなことはない。