ある若い女性のblogを読んでいたら、自分の器の小ささに嘆いていた。blogの行間から、彼女が自己嫌悪に陥っているのが伝わってきた。彼女はおそらく20代。
女性のblogに何かコメントしようかと思ったが、辞めた。何を書いても上手く伝わらない気がしたから。
ただ自分にとって、自己嫌悪になれることが羨ましく感じた。そんな気持ちになれるのは若い証拠だから。コンプレックスに押し潰されそうになるのと同じで。
直近で自分が自己嫌悪に陥ったのはいつだろう? 思い出せないくらい遠い昔のような気がする。
日々の暮らしの中で煩わしさを感じる場面は多々あるし、立派なオッサンに見られるような歳になっても、投げやりな態度に出ることだって少なくはない。まるで子供だと、自嘲してしまうほどに。
それでも、どちらも自己嫌悪とは違う気がする。
元来あまのじゃく、そればかりか意識低い系を標榜しているマスヲ。30代はともかくとして、40代になってからは、反省なんて糞食らえとしか考えていない。猿でもできることならば、人間様が猿真似する必用はないだろう。
昨日、twitterを見ていたら久しぶりに興味深いtweetを見つけた。tweetしたのはデーブ・スペクター。そのtweetは以下になる。
自分と向き合いたい言う人がいるけど、物理的に無理だと思う
— デーブ・スペクター (@dave_spector) December 22, 2018
こういうジョークを日本人はなかなか思いつかないだろう。『自分と向き合いたい』という、日本人にとって馴染みの深い言葉は、他の言語では似たようなスラングはあるのだろうか。もし、無いのであれば翻訳によって正しく伝わるのだろうか。
似たような言葉もいくつかある。『自分を見つめ直す』や『自分探し』などなど。
距離が近いものしか主観的に捉えられないし、距離をとらないと物事を客観的に捉えることができないと、自分は考えている。
だが、世の中には様々なタイプがいるし、凡人の自分から見たら超越するような能力を持った人がいるかもしれない。
そんな特別な人であれば、ある意味では距離がまったくないと考えられる自分自身について客観視できるのかもしれないが、自分には無理だ。デーブ・スペクターも、おそらく。
ひょっとしたら、そういった特別な人に大きな器が備わっているのかもしれない。
歳を重ねることは悪いことばかりではないが、若いころにしか感じなかったことを、時折懐かしくなる年ごろなのが、中年の証なのだろうか。