空っぽオバサンこと小池百合子が口にしたことに従うようでしゃくだったが、三日ぶりにスーパーへ買い物に出かけた昨日。
人が多い時間帯を避けるため、お昼休みに行くことも考えたが結局出かけたのは夕方。
仕事を終えた後、30分ほど草抜きをした後に家を出た。
何も持たずに身軽のままで自転車のサドルに跨がった。
夕暮れの街の中、ヘッドライトを点けた自転車のペダルを漕いだ。
カメラを持って行くかを迷ったが辞めた。久しぶりに一度もカメラのシャッターを切ることがないままに一日が過ぎた。
スーパーに着くとほとんどの買い物客が一人で来店していた。少しずつ人々の行動が変わっているように感じる。
それでも、その変化のスピードが遅いようにも自分は思う。
どこかの知事が口にするまでもなく、スーパーやドラッグストアでの買い物に危険を感じるようになって、何日が経つだろう?
新型コロナウィルスが世に出る前から欲しい物、使い続けていて少なくなってきたものや無くなったものに気がつくとスマホのメモ帳に書いている。買い物をするときにはそれを見ることを習慣化しているが、それでも買い忘れることはある。
このごろは自分が感染した時のことも考えて、様々なものの在庫を増やしている。
発熱しても四日間は適切な治療が受けられないことを考慮して。 昨日、ふと思ったことがある。
コロナ感染の後に人々の間に出来るであろう、差について。
その差はいろいろな範囲に及ぶだろう。経済的なこと、思考など人の内面に関わることや特定の人間関係などなど。
その差を大きく感じる人もいれば、それほど気にしない人も出てくるだろう。
そんな思いつきから、ぼんやりと考えた。
そんな差が出来たあとの世界で、これからの自分はどうもがいて生きていくのだろうかを。
自分は何も持っていないし、何もできない人間だ。
経済力はないし、体力もない。人に誇れるような才能なんて何ひとつない。
そんな自分だからこそ、せめて次のひとつのことくらいは意識したい。
変化し続けること、変わることへの挑戦を。
自分の今までの生き方を振り返ってみると、昔とは変わっている部分がいくつかはある。
十年先、二十年先に今の自分をどう思うのだろう?
自分が生きていたら、生き残っていることが出来ていればの話だが、果たして……。