歳を取るにつれて、まわりの友人や知人たちも当然のように歳を重ねている。当たり前だが自分のまわりにはオッサンが増えてきた。
10代や20代のころに嫌なオッサンを散々見ていたのだが、自分もオッサンと言われて言い逃れできない歳になってしまった。
若いころの自分から見て、好意的に見えたオッサンもいたが、ほんの少数だった。
若い人から見たら今の自分は、大多数の嫌われがちなオッサンになっているのだろうか。
このごろ、身近な人間とプライベートで話していて気になることがある。それは自己肯定感。
私的な時間に人と話をする場は飲み会が多い。お酒を呑んでいると酔いのせいで口が軽くなるのだろうか。不用意な発言が多くなっているのかもしれないが。
酔った時の言葉を無かったことにしたい人は結構いるのかもしれないが、それはあくまで酔っ払いの言い訳。世の中でお酒を嗜まない人は、決して少なくないはずだ。
この歳になってお酒を呑んでいると、多くなるのは愚痴や自慢話。愚痴を言ってから、自慢話を連続コンボで繰り出す友人もいるが、昔からの関係であることもあって諦めて聞いている。聞いているフリをしている。
せめて逆ならば多少は同情もできるのだが、最後に自分を見下すような視点で話をされると、面白くはない。
彼らにはある共通点があることに気がついた。もっと言うと、世間で嫌われがちなオッサンは同じものを持ちあわせているのではないかとも。
その共通点とは、自己肯定感。
好意的に捉える人が多い単語かもしれないが、自分は違う。好きか嫌いかを二択で問われたら、間違いなく後者。
知己であるほとんどの人は、自分から手の届かないような道を歩いている訳ではない気がする。
世間の誰からも尊敬されていたり、羨ましがられている人ではないだろう。
せいぜい有名な学校を出ているとか、一流企業で働いているとか、自分でビジネスを始めて少し上手くいっているくらいだろう。
ちっちゃい場合だと、職場で少しばかりの出世が彼らの自己肯定感の根拠になっているような気がする。
他人に比べると自己肯定感は低い方だと思っているが、まわりの評価はどうなのだろう?
それでも、かろうじて最低限度の自尊心だけは持ちあわせているだろうし、それでなんとか今までやってきた。
自分自身を雑に扱ってはいけないが、必要以上の自己肯定感は本人のためにならないのではないか。
人の話に耳を傾けることができるような柔軟性はなくなるし、思考も硬直化する。
新しいことへ挑戦することもなくなり、昨日と同じような明日をただ生きるだけになってしまう。
多少の航路を知っているからとして、新しい航路の発見を全て若者に任せなくてもと、自分は考えている。