今年になってから、人から言われた言葉で一番ショックだったのは娘からの一言。もっと余裕がある人かと思ってた、と一緒にスキーに行った時に言われた言葉が。
今となってはずっしりと重く感じてきている。
ちょっと時間が経ってから、振り返ってみると何でもないようなことでイライラしたり動揺したりすることが多くなっている。
それが例え、コロナ禍のことであっても。
先日、年下の友人二人とグラスを傾けたときのこと。
二人は自分をヨイショしてくれていたように思う。
今までいろいろな仕事を渡り歩いてきて凄いというようなことを、口にしてくれた。逆に言うとそれくらいしか、自分を褒めるような言葉はないのだろうが。
それでも、今までの自分は公私ともに様々なことに挑戦してきたのは事実。上手く出来ていたかどうかは別にして。
仕事ではアルバイトから初めた生花の仲卸から、宅配便のドライバーを経てシステムエンジニアの仕事をしている。
プライベートではパチンコ、競馬、小説を書くこと、スキーなどに猿のようにはまり、最近ではカメラでポートレートを撮ることにはまっていた。
「はまっていた」と過去形にしたのには理由がある。実はポートレートを続けるか、少し迷っているからだ。
その話は長くなるので、別の機会に書くことにして話を本筋に戻したい。
確かに今までは不器用ながらも様々なことに挑んできたが、これからも同じように生きていけるとは考えられなくなってきた。
気力、体力、そしてもともとわずかしか持ち合わせていなかった知力の低下からも、そう思わざるをえないからだ。
おまけのように痩せたことも褒めてくれたが、そこまで優しい言葉を口にしなければならないほど、今の自分はいたたまれなかったのかもしれない。
二人から見た久しぶりの自分は、かなり違って見えたのだろう。
余裕がないせいか、まわりが自分の思うようにならないと、すぐに腹が立ってしまうこのごろ。年を取ることの弊害なのかもしれないが。
歳を重ねるといろいろな意味で融通が利かなくなり、感情のコントロールが難しくなることが、少しわかった気がする。
世間でカミナリ親父という言葉をあまり見聞きしなくなったのはどうしてだろう?
少しだけ寂しいと感じているのは自分だけだろうか。