観念的、抽象的なことについてこのごろはよく考え続けてしまう。
小説を書くためには避けて通れないので、多少は仕方がないのだろうが、一線を越えてしまった気がする。はまってはいけない沼にはまってしまったのだろうか。
そんなことをよく考えていた20代。今、思い返すと恥ずかしい。たいした経験や知識もなかったのに、身の丈にあっていないことばかりを逡巡していたように思えるから。
かつては自分の死後について普通に考えていた。死後の世界はあるのか、死んだあとに自分がどうなるのか、死んだ自分のことをその後の世界ではどのように扱われるかなどなど。
この世で自分が消えたとしても、爪痕として何かを遺したいと思いはじめたことが自分の中で膨らみ、小説を書きはじめた動機のひとつになったような気がする。
だが、その考えは変わった。父の死の影響を受けて。
60代の末に、死病だと言われる膵臓がんを医者から宣告され、数年の闘病後に71歳でこの世を去った父。
死期がせまったある日、二人きりの病室で父が口にした言葉は、まだ死にたくない。
聞いた後、自分がかなり動揺したこともはっきりと覚えているが、その時に自分が何をどう応えたのは全く記憶にない。何も答えられないでいたのだろうか。
昨日は心療内科への通院日だったが、久しぶりに問診時間が長くなった。
このところの自分は弱っていて少しおかしいという自覚はあったが、そのことに気がついてくれたのはさすがに専門家だと思った。
診察してくれた先生と話し合った結果、レクサプロを服用することになった。
昨年の六月までに二年以上も常用していた薬だったが、その後はこの薬なしでもなんとかやってきていたのだが。
診察の最後に次のようなことを言われた。衝動的なことはしないように、と。
このクリニックに数年通院しているが、ここまではっきりと言われたことは初めてだった。
診察を終えて帰宅するために車のハンドルを握った。夕方の帰宅時間と重なったために、道が滞り始めた。
交差点近くで車が動かなくなった時、自分の視点が留まった。ある宗教法人の建物が取り壊されていたから。
21世紀は宗教にとって不遇の時代だと、ある学者がテレビで言っていたのを思いだした。
パソコンだけでなくスマホまでが当り前のように普及したら、あらゆることへの神秘性が失われていくのは自然なことだろう。
ただ、自分は思った。盲信するだけで満たされた気持ちになれるのならば、それも悪くないかもしれない、と。
怪しい宗教の教祖だけでなく、マイナーアイドルの一人だって偶像視できる対象があれば、それだけで人は幸せになれるのだろうか。
宗教は麻薬だと、よく口にしていた父。そんな父が癌で死に近づく中、最後はモルヒネに頼っていた。
死ぬまで特定の宗教に帰依していなかった父。
信仰と薬、どちらに頼った方が人は幸せになれるのだろう? 何にも頼らずに死を迎えられるほど人が強くないことを、父は教えてくれたのかもしれない。