今の現場の会社の入口にあるものが額に入れられて飾られている。気がついた時に、正直自分はドン引きした。額に入れられていたのは全社員の集合写真だったからだ。
よく見るとちょい悪親父風の社長も前列の真ん中に、昨日自分にヒステリックに当り散らした女性部長も前列で作ったような笑顔で写真に納まっている。
毎朝思わず見てしまうのだが、朝から気分が悪くなってくる。
最初に勤めた会社は今の業種と全く違う会社だった。法人登記は株式会社だったが実質は家族経営で有給休暇どころか社則なるものも見たことがないほどだった。
その会社に在籍中に同居していた祖父がなくなったのだが、忙しかった日だったので、出勤して祖父のことを告げると帰ることを促されたのには、逆にびっくりしたほどだ。
その会社の社長は俗にいう駄目な2代目社長の典型だった。外飯も食べずに家業を継いだためだろう。人に使われたことがないので、従業員の気持ちがわからないために社員との間に信用ではなく軋轢ばかりを作っていた。
彼が外飯を食べずに済んだのは父親の意向だったらしい。創業者である父親が、自分のような苦労を息子にさせたくないと考えていたようだ。
そんな2代目社長は良く言っていた。自分の家族の集合写真を撮って玄関に飾りたいと。
自分もどちらかというと似合っていないがナルシストだと思うが、そんな恥ずかしいことはしたいと思わない。
今の現場の写真は誰の意見で飾ることになったのかは定かではないが、やはり社長ではないかと邪推している。
社会人を続ければ続けるほどに痛感するのは、人格と同じように法人にも風土があるということを。
また、それは良くも悪くも変わること、変えることは難しいということも。
なぜなら、会社でいう社風というものは会社の経営者の人格が反映されていると考えているからだ。
家族の写真を年賀状で送るのもある種の同じメンタリティを感じるのだが、100歩譲ってそちらはまだ我慢できる。
だが、家族の写真や社員の写真をそれぞれの玄関に飾ってあることを見るのは耐え難い。
それを見て良いと思う人間もいるかもしれないが、どのような感覚だと肯定的に捉えることが出来るのだろう。
家族や社員の中には集合写真を撮ることが嫌な人間もいるかもしれないと、考えたりしないのだろうか。自分の父親はそんなタイプではなかった。仮に自分の父が提案したとしても自分はおそらく従わなかったと思う。特に思春期のころだったならば。
1枚の写真で連帯感みたいなものを示したいのかもしれないが、そのような人の気持ちを形にするものではないと自分は考えている。