IT業界で働き、特に講師として登壇するようになってから、よく考えさせられる言葉の一つが「属人化」だ。
SESとして大規模なシステム開発に参加しているときには、それほど意識することはなかった。だが、小規模なチームでシステムの保守などを担当していると、特定の人しか仕事に必要な情報を把握していない場面に何度も遭遇してきた。
組織で仕事をするうえでは脱属人化が理想とされているが、ただの建前なのだろうか。
昨日の深夜、地元の友人とオンラインで話し込んだ。話題は多岐にわたったが、その一つが、ある撮影会の企画の価格設定についてだった。
自分も参加したことのある撮影会が、今秋に初めて海外撮影会を開催すると発表している。その参加費を、友人に予想してもらったのだ。
友人の予想は、実際の価格を5万円ほど下回っていた。だが、友人の金銭感覚のほうが妥当だと自分は考えた。
自分もその企画の参加費を初めて見たときには、目を疑ったからだ。
首都圏や関西圏の撮影会は、これまでも沖縄などで遠征企画を開催してきた。だが、自分は一度も参加したことがない。
エンジニアとして働き、家のローンを完済したことはもちろん、フリーランスとしての立ち回りにも慣れてきた。今の自分であれば、その種の企画の参加費くらいは捻出できる。
それでも、どうしても参加する気にはなれない。
それどころか、自分のポトレへの意欲は、さらに低下してしまっている。未現像のデータは残っているが、撮影会への予約もないし、当面はその予定もない。
属人化に頼っている仕事は少なくないが、撮影会というビジネスもその一つだろう。
結局、その価格を成立させているのは、企画の内容よりも特定のモデルの属人性なのだろう。
色恋ビジネスと見なされかねない仕事は、どれも属人性から逃れられない。
逆に、脱属人化しやすい仕事ほど、これから先はAIに置き換えられる可能性が高い。
そう考えると、働き手にとって自分の仕事をあえて属人化させることは、一つの生存戦略なのかもしれない。
誰でもできる仕事になれば、その仕事を自分が担う理由もなくなるからだ。
ただし、属人性が強くなりすぎると、価格や評価の基準が外部から見えにくくなる。その結果、界隈は閉鎖的になり、その界隈の外にいる人たちからの理解や共感は得にくくなるだろう。
人間には、自分が知らないものや理解できないものを、攻撃したり排除したりする性があるからだ。
だからこそ、属人性を商品にするビジネスには、外部の人間にも納得できる価格の根拠やルールが必要なのではないだろうか。
撮影会という特殊なビジネスモデルのあり方を、そろそろ考え直す時期に来ているように思う。
だが、関係者たちからそんな様子は微塵も感じられない。自分一人がこの界隈に残ろうが立ち去ろうが、何も変わらないのだろう。






