淡白マスヲのたんぱく宣言 

アラフィフのオッサンの雑記。広く浅く、そして薄い視点で気楽に書いてマース。

50周年の年に

旅人にはそれぞれに、旅を続ける理由がある。
これは旅好きの自分が、あるときに気がついた言葉だ。

この記事は下世話な内容なので、読者を選ぶかもしれない。その点はあしからず。

昨夜、先日のblogで明言した通り、キャバレー花園のグランドスラムを達成した。
昨夜の立会人は、フリーター時代からの友人一人。
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全店制覇がかかっていた最後の店は柴田店。
名鉄常滑線の柴田駅が最寄り駅だ。
桑名店とこの店だけは最寄りに地下鉄の駅がない。もっとも、桑名店は名古屋市内どころか愛知県内ですらないので、ほかの店舗と比較するのもおかしいのかもしれない。

柴田駅を利用したのは今回が初めてだった。
普通電車しか停まらないこともあるだろうし、これまで仕事でもプライベートでも訪れる理由がなかった。
昔、自分が『花園グランドスラム』なんていう旅の目的を思いついていなければ、一生縁のないままの駅だったかもしれない。

駅前にはロータリーもなく、週末の夕方なのに人影も少ない。
客待ちをしているタクシーも停まっていなかった。
駅舎自体は古びてはいないが、駅前は名古屋市内とは思えないほど寂しかった。コンビニすら見当たらなかった。
高架駅なので、改札を抜けて駅舎を出ると、目の前にはチェーン店のヘルスの看板が見えた。
花園まで歩く途中にもいくつかの風俗店を見かけたが、客の気配はほとんど感じなかった。
自分の友人にも夜遊び好きは少なくないはずだが、柴田駅近辺で遊んだという話を聞いた記憶もない。

閑散とした裏通りを歩いて目的地を目指すと、かつて営業していたと思われる店がいくつか目についた。
かろうじて営業している焼鳥屋などもあった。
あとで社交さんから聞いた話では、橋を渡ればすぐ東海市という立地らしい。
大通りに面していることもあって、バス停も近くにあるようだ。社交さんの中にはバスで通勤している人もいるという。
実際、自分たちが店の扉を開けたのとほぼ同じタイミングで、一人の女性も店に入っていった。
その彼女は、あとで自分たちの接客もしてくれた。
片側に複数車線がある大通り沿いなので、他人の目を気にする人なら店の扉を開けるのを躊躇するかもしれない。
柴田店の数軒隣には、チェーン店のかつやがあった。

自分たちが店に着いたのは、18時を少し過ぎたころだったと思う。
店内の隅に社交さんたちが固まって座っていたので、黒服に営業しているのかと尋ねると、一番奥のボックス席へ促された。
友人の隣には花園らしくない若い社交さんが座り、自分の隣には花園らしい自分よりも年配に見えたベテランの社交さんが座った。

社交さんたちは、すぐにお決まりの質問を投げかけてきた。
この店は初めてか、と。
初めてであることと、自分にとってこの店が全店制覇の最後の一店であることを友人が答えた。
すると社交さんが、前日にも全店制覇を目指しているという客が同じ席に座っていたと教えてくれた。
旅の途中にいる男と、旅を終えようとしている男。
そんな二人が一日違いで同じ席に座り、それぞれにグラスを傾けていたなんて香ばしい。

その話をしていると、自分たちのすぐ横でミーティングが始まった。
毎朝ではなく、毎夕行われているらしい。
向かいに座っていた友人はサラリーマンの管理職なので、その内容に興味を持ったようだった。
自分は白けていた。
やるのなら、自分たちの目に入らない場所でやってほしかった。
もっとも、それは贅沢なのかもしれない。
1セット40分。一番高い時間帯に指名しても4500円の 場末のキャバレーだ。
高級ラウンジでも、気取ったキャバクラでもない。

ふと、自分の目の前にある真っ赤な壁に掲示された貼り紙が目に入った。そこには、「祝50周年」と書かれていた。
自分の一つの旅の終わりが、そんなアニバーサリーに当たるなんて、ちょっぴり感慨深かった。

前日に同じ席へ座った旅人は、いつ旅の終わりを迎えるのだろう。
もちろん、途中で目的に意味を見いだせなくなり、旅そのものを放り出すことだってあるだろう。
9年越し。長い時間をかけて達成した、キャバレー花園の全店制覇。
昨夕、店へ向かう途中は、正直なところ少し気が重かった。
コロナ禍以降は花園へ遊びに行っていなかったし、キャバクラやガールズバーもここ数年はご無沙汰だったからだ。
キャバクラやガールズバーのキャストたちとはまた違う、かなり個性的な社交さんたちとの会話を苦痛に感じないだろうか。
そんなことを心配していたが、杞憂に終わった。
彼女たちを異性として意識することはなかったが、接客に対する真剣さは伝わってきたからだ。
少なくとも、今の現場でSESとしてシステム運用に携わっている自分なんかより、彼女たちのほうがずっと真面目に仕事へ向き合っていた。

会計は二人で5000円。
支払いを済ませると、接客してくれた社交さんたちが出口まで見送ってくれた。
自分の一つの旅の終わりまで、見届けてくれたような気がした。
10年近く続いた一つの旅が終わったが、何かが大きく変わったわけではない。
人生という辛くて、馬鹿馬鹿しくて、ときどき楽しい旅は続くのだから。

一対一

地元に戻ってきてからも、マシンピラティスを続けている。
こちらに戻ってきて最初のレッスンでは、担当のトレーナーが感じよく接してくれた。
自分の得意技である勘違いだったのかもしれないけれど、再会したことを喜んでくれているようにも見えた。
若い女性が微笑んでくれると、それだけで幸せな気持ちになる自分。
半年ぶりに戻ってきた自分が、その間もマシンピラティスを続けていたことや、姿勢など見た目にも少し変化があったことが、彼女のテンションを上げていたのだろうか。
自分がイケオジだったら、このタイミングで一気に距離が縮まったのかもしれない。
もっとも、彼女は既婚者なので、冴えないオッサンくらいでちょうどいいのだろう。

武蔵野でのレッスンも、地元でのレッスンも月に四回。
どちらも会員専用のサイトで空いている枠を見つけて予約するシステムだ。
だが、大きな違いがある。
武蔵野では最大11人が同時に参加するグループレッスンだったが、地元では完全なマンツーマンのレッスン。

こちらに戻ってきて最初だった前回のレッスンは、月曜日の気配が濃くなりはじめる日曜日の夕方からだった。
少しずつ気が重くなっていたのだが、ピラティスを始めてみると驚いた。
身体が整い始める感覚はこれまでと変わらなかったが、気持ちのリフレッシュ感がこれまでとは段違いだった。
身体と気持ちが軽くなった理由を帰り道に考えて気がついた。
マンツーマンレッスンだったからだ。
グループレッスンだと、一緒にレッスンを受けている他人の目がどうしても気になる。
運動神経が悪く、右足にもハンデがある自分がレッスンについていくことにはプレッシャーも感じるし、ときにはそれ自体がストレスにもなる。
だが、マンツーマンならレッスン内容すら、その日の自分の体調に合わせてトレーナーがカスタマイズしてくれる。
そのありがたみと効果を、改めてしみじみと感じた。

そんなこともあってか、実は今日のレッスンが楽しみだった。
ピラティスに対してそんな気持ちを抱いたのは、初めてではないだろうか。
土曜日の朝一番、9時からだったが、起きることが苦痛だとは少しも思わなかった。
実際、レッスン中も楽しかった。

終わったばかりの今も、すでに次のレッスンが楽しみになっている。
今日のレッスンの帰り道、ふと思った。
案外、自分は一対一の関係に向いているのではないか。
考えてみれば、男女を問わず、一対一でお茶を飲んだり食事をしたりした時間が、よい思い出として残っていることが多い。

物心がついたころには祖父母と同居していて、六人家族という騒がしく落ち着かない環境で育った。
そう考えると、一対一を好む今の自分が少し意外でもある。
逆にだからこそ、騒がしい環境で育ったからこそ、一対一の静かな関係を心地よく感じるようになったのかもしれない。

消火器は火が消えてから

今の現場には、月の稼働時間が270時間を超えている人がいる。
プロパー社員二人も、直近三か月の平均は250時間を超えているらしい。

250over。
久しぶりに聞いた数字だった。
いや、聞いたことがあったとしても、自分の身近で聞きたい数字ではない。

この現場には、誰が誰に指示を出すのかを整理した体制図がない。
誰がどれくらいの仕事を抱えているのかも、誰も把握していない。
タスクコントロールという言葉も、たぶん存在していない。

そのことをSES側のPMOに指摘した。
返ってきた答えは、「それは理想論。まずオンスケにしてから」

なるほど。
火事になっている家の中で、消火器を置くのは火が消えてからにしよう、と言われたような気がした。
その瞬間、この現場を良くしようと考えるのをやめた。

すでに一人、SESの作業員が心が折れて、現場に来られなくなっている。
その穴を埋めるために、再来週から自分は四週連続で土曜日に出勤することになった。
誰かが壊れ、その穴を埋めるために、壊した人ではなく、私が土曜日ごとに役所を回ることになった。

かわりに平日は残業しない、と交換条件を出した。
自分の今回の時給は4180円。守られるかは疑問だけれど。
フリーランスとしては格安である。
格安商品だからといって、使い放題ではない。

その来られなくなった人について、部長と課長代理が本番環境ルームで悪く言っていた。
「あなたの前で言うのも悪いけれど」そんな前置きまであった。
自分は愛想笑いをして聞いていた。
彼らを軽蔑したけれど、笑っていた自分も人としては最低だ。

自治体で使う受給者証や納付書などの専用帳票は、一枚700円で発注されると聞いた。
一枚700円。
いろいろなコストが含まれているのだろう。
大人なので、そのくらいの想像はできる。
それでも、一枚700円の紙を扱う会社で、人間の時間だけはずいぶん安く扱われているように見える。

ちなみに、今のPMOにも前任者がいたらしい。
なぜ替わったのかは知らない。
知らないままでいい気もしている。

自分がいなくなったあとも、次に来た誰かが同じことを考えるかもしれない。
前の人は、なぜいなくなったのだろう、と。

ある意味では、それが使い捨てのSESの宿命なのかもしれない。

みかかの呪い

先週の木曜日に新しい現場へ着任したが、仕事の内容はほとんどが不明だ。
システムの保守と運用の手伝いをすることになっているが、昨日までにやったことといえば、毎朝の会議、資料の読み込みとPCのキッティングだけだ。

客先の準備と指示の不足もあって、昨日になってようやくPCが使えるようになった。
そんな状況が続いていたせいで、仕事先で時間が過ぎるのは遅かった。
ぼんやりと座っているだけだと、手術をした右足の疼きばかりが気になった。
それすら、何かの呪いのようにも思える。

現場のことを少し補記すると、担当するシステムは、ある行政システムのパッケージで、ユーザーは地元の市町村。
システムは自治体ごとにそれなりにカスタマイズされていることも分かってきた。
関わる企業にとっては、かなり安定した仕事なのかもしれない。
この一週間で知った限りでは、自分が手伝うことになったチーム内にプロパー社員は三人。こんな体制で商売になるなら、経営側は笑いが止まらない。

会社は『みかか』のグループ会社だが、『みかか』のことをまったく好意的に思えない自分は、どうしても粗探しをしてしまう。
まず未だに、参加したチームのメンバーを紹介されていないし、体制図も見たことがない。
自分は誰の指示に従って、誰に報告すればいいのか知らないままだ。普通ならあるはずの資料や、周知されるはずの情報もほとんどない。
チームメンバーのITリテラシーやマナーにも首を傾げることが多い。パソコンの警告音を消していなかったり、離席するときにログオフしなかったりする光景にも、すでに見慣れてしまった。

昨日、不要になった印刷物の廃棄方法を尋ねたところ、先に着任していたメンバーも分からない様子だった。
こんな環境で、デリケートであるはずの行政システムの情報を扱うことに不安を覚えた。その情報の当事者が、いつか自分になる可能性だってあるからだ。
自分にも短期と中期のミッションが下された。
長期の話も聞いているが、受けている契約は年内までなので、その先は知ったことではない。今のところ、年明け以降の契約更新は考えていないからだ。

中期のミッションは、週末に、ある自治体の役所まで一人で赴き、端末をセットアップすること。
その話の頭出しを先日聞いたが、プロパー社員も無茶ぶりだと自覚しているようで、どこかバツが悪そうだった。
短期のミッションは、自治体で使用する帳票の発注だ。
自治体から連絡があったら、システム会社が取りまとめて、それぞれの印刷会社へ発注するらしい。
今の自分に見えている範囲だけなら、ほとんど取り次ぎにしか見えない。
これで利益を抜けるのかと、感心してしまった。

ちなみに、今回の自分の契約は時給4180円。フリーランスになってからも、50代になってからも、時給契約をしたのは初めてだし、格安。
登壇が終わったら隙間なく働きたいと思って飛びついた仕事だったが、もう少し待てなかったのかと後悔しはじめている。
待つことすらできなかった自分の焦りこそが、一番の呪いなのかもしれない。

taker

この一週間で被写体から自分へ送られてきたDMが二件ある。どちらも営業メールだった。

気温が下がったので屋外での撮影もしやすく、絵になりやすいロケーションが増えるこれからの季節は、彼女たちにとっても稼ぎ時のはず。それでも営業DMが届くということは、何か事情があるのかもしれない。

昔だったら、そんな誘いに乗ったかもしれないが、今の自分は愉快にはなれなかった。
被写体側から一方的に何かを求められているように感じる場面が増えたからだ。
そんなやり取りを、自分はtakerとの関係だと感じるようになってしまった。

別に偉そうなことを言うつもりはない。
ただ、今の自分が嫌いな人間のタイプの一つはtakerだ。
人が人に一方的に何かを求める姿があからさまだと、みっともないと思えるようになってしまったからだ。
人と人とは対等であるべきだという、ごく当たり前の考えに、ようやく辿り着いた気もする。

その視点から眺めると、今のポトレ界隈には違和感を覚えることが多い。
オッサンがお金を払って、カメラ片手に若い女性と仲良くしたいと思うのは、全然OK。
かつての自分も楽しんでいた。
そこにはお金が介在しているからだ。男性側は下心をそれほど隠していないし、女性側も対価を受け取っているから、それなりに対等だと考えられる。
夜のお店の女性スタッフと男性客のように、かなり分かりやすい関係だと思う。

ごく親しい仲間や友人たちには、自分のポトレ撮影のスタイルを「キャバクラ撮影」と自虐的に話したこともよくあった。
それなりに的を射た表現だったのではないかと、今でも思う。

もちろん、ポートレートを純粋な表現として楽しんでいる人もいるのだろう。だが、撮る側と撮られる側が男女であることが、その関係に一度も影響しなかったと言い切れるのか。それだけは問いたい。
そもそも、撮影者自身が一緒にいて心を動かされない相手を撮って、本当に何かが伝わるのだろうか。自分には分からない。

写真を「作品」と呼んだり、撮影を「作品撮り」と呼んだりする風潮にも、ずっとげんなりしてきた。
写真が表現の一つであることは間違いない。
だが、「表現」という言葉を使った途端に、撮る側と撮られる側の関係が高尚なものに変わるとは、自分には思えない。

界隈の中にいる人たちと、それ以外の人たちとの認識のズレは、広がり続けているようにも感じる。
最近の自分にしては珍しく、今の界隈を眺めていると、若い女性よりもオッサンたちの側に立ちたくなる。こんなふうに感じる状況は、いつまで続くのだろう。

ポトレを撮りたいという気持ちは、今も残っている。
ただ、それ以上に、「対等」という言葉を理解できない人たちとは、もう交われないと思う。
自分の体力や時間やお金を、相手のために無造作に差し出し続けることは、自分自身を雑に扱うことと同じだからだ。
もちろん、異論は受けつける。