今更ながら、このブログの目的を改めて書いておこうと思う。自分にとって一番の読者は、大人になったときの娘である。
自分が死んだあとに、父親がどんな人物だったのかを振り返るヒントになればと思って書いている。だから、これまで書き続けてこられたのだと思う。
正直、娘が生まれたときの気持ちは微妙だった。男だから、彼女が生まれたときに自分の身体を痛めたわけでもない。その瞬間に何かを失ったとか、得たとかいう感覚はまったくなかった。
親としてやっていけるのか自信がなくて、不安しかなかったことを今でも覚えている。
だが、不思議なものだ。彼女は彼女なりに自分のことを親として扱ってくれて、そのことが自分を少しだけ父親らしくさせてくれた。
寺社や身内の墓参りなどで合掌するときも、彼女のことまでお願いするのがいつの間にか当たり前になっている。
今まで何人もの女性を好きになってきたが、娘以上に大切に思えた人物はいなかったし、おそらくこれからも現れないだろう。
そんなことを彼女本人に伝えたことは一度もない。母親よりも父親のほうが、そういうことを口にしない傾向があるのかもしれない。
だからこそ、素の自分を文章に書けてきた気がするし、今日も自分を隠さずに書き散らかしたい。
今の自分の精神状態は絶不調だ。
逆に、これまでの人生で絶好調だったことなどあったのだろうか。そう考えると少し諦観もできそうだが、突き詰めて考えると、自分の人生はこれまでもこの先も、生きづらさから逃れられないのかもしれない。
その生きづらさは、自分が性善説に囚われて逃れられないからではないかと、最近になって考えられるようになった。
他人のことを勝手に信じ込み、失望して傷つくことを繰り返し、これから先もまた繰り返していくのだろう。
だったら、いっそ、などと思うほどの勇気もないのが、自分らしくて虚しい。
具体的には、仕事のことを考えても、趣味のポトレのことを考えても、このごろは心がざわついて仕方がない。
ポトレ界隈の状況は自分を失望させ続けているだけだが、仕事のほうは直近まで違っていたので、油断していた分だけ闇落ちしている。今年度の講師としての登壇は、びっくりするほど平穏だったからだ。
だが、その平和な日々も終わろうとしている。今年は自分が名指しで非難されるようなことはなかったが、他人のせいで自分の心の平穏が乱されようとしている。
誰のせいでもないと言いたいけれど、明らかに誰かのせいだと自分は思う。
ここ数日、よく思う。もし来年度の登壇依頼があったら、一度白紙で考え直そう、と。講師の仕事はコミュニケーションの負荷が高すぎるからだ。
他人と比べても、自分ほどの人間嫌いはなかなかいないと思う。
仕事上の人間関係には深入りしないよう気をつけているつもりなのに、それでも近づいてしまうのは何なのだろう。
人嫌いなのだから、いっそのこと女性も嫌いになれれば、ある意味ではすっきりするはずなのだが、それもできない自分の勝手さも嫌いだ。




