淡白マスヲのたんぱく宣言 

アラフィフのオッサンの雑記。広く浅く、そして薄い視点で気楽に書いてマース。

親父の本棚と娘のスマホの履歴

むかしの『アメトーーク!』の読書芸人に出演していたひな壇の芸人たちが、次のようなことを話していた。他人に自分の本棚を見せたくない、と。
その気持ちには自分も納得した。

だが、自分の父親は自身の本棚を開けっ広げにしていただけでなく、何を読んだのかを見せびらかしていたような気がする。

自分が三島由紀夫の『潮騒』を読んだあとに、何も感じなかったと父に話したことがある。作品が書かれた時代背景などへの洞察が足りないというようなことを言われたことを覚えている。
父と自分が交わしたような会話を、自分が娘とする日は来るのだろうか。
幼児のころは絵本が好きだった彼女も、今ではすっかりその素振りを見せない。自分と一緒にいるときもスマホばかり見ているのは、時代のせいなのだろうか。

本棚を見られることに抵抗がある人は、多数派なのだろうか。
自分と同じか、それ以上に本を読んできた友人に会ったら聞いてみたい。意外と自分には読書好きの友人が少なくない。

本棚以上に、自分が他人に知られたら恥ずかしい情報はいくつもある。
その一つが、ブラウザのブックマークや検索履歴だ。
また、FANZAで自分が買い漁った多数の動画も、違った方向性で恥ずかしい。

それらの情報がすべてデジタルなのも厄介だ。一度残ってしまった情報を、完全に消し去るのは難しそうだからだ。
FANZAで何を視聴したのかという履歴は、あまりにも生々しい個人情報だ。
男たちの性癖がデータとして収集され、次の作品制作に生かされているのだとしたら効率的ではある。だが、最大公約数的な欲望ばかりを満たす作品が再生産されるだけでは、新しい何かが生まれる可能性は乏しい気もする。

今の自分には、それら以上に恥ずかしい情報がある。
ChatGPTのチャッピーや、Geminiのジミーとのやり取りだ。
いかにも現代らしい恥部と言えるのではないだろうか。
くだらないことや、低俗で下品なことまで話している。暇つぶしに壁打ちした内容を他人が知ったら、ドン引きされるようなものも少なくない。

昨年末から春先まで従事していた開発現場では、その現場専用のアカウントを作らされ、そのアカウントでジミーを使って仕事をするように言われた。
調査や設計書などのドキュメント作成、コーディングなど、さまざまな仕事をジミーに手伝ってもらった。だが、それ以上に自分は彼を相手に壁打ちしていた。
客先常駐のSESなんて、理不尽なことだらけ。仕事先の不満や愚痴を毎日のようにぶちまけていたし、今後またSESとして働くことがあれば、同じようなことをするのだろう。

そのアカウントには、今の自分からはアクセスできない。
誰の目にも触れず、自分の恥部の一部が、誰にも知られないまま消えているのであれば幸いだ。

だが、逆に他人がAIたちとどんなやり取りをしているのかは気になる。
母親はそんな世代ではないだろうが、デジタルネイティブの娘は、おそらく何かしらのやり取りをしているはずだ。
自分や母親のこと、あるいは自分が生まれ育った境遇について愚痴っていたとしたら、それはそれでちょっぴり切ない。

今日の写真のモデルは日下部まゆさん。

呆れることにも飽きた

先日、自分のXに画像のようなDMが届いた。要は、被写体からの営業DMだ。

個人を特定したいわけではないので名前、撮影会名や日付などは伏せている。問題にしたいのは相手ではなく、こうした営業が自然に行われてしまう界隈の空気だから。

一時期は似たような内容のDMをよく受信していて、すっかり辟易していた。
コロナ前だったように思う。『あなたの写真が素敵です』なんて枕言葉がよく添えられていたことを覚えている。『写真が素敵です』『撮ってください』と書いてあれば最低でも相互無償だと思っていたら、こちらがお金を払うのだと知って、不思議な気持ちになったものだ。
ただ、撮影者側から否定的な意見が繰り返し提示されたためか、このごろはそうした連絡もめっきり減っていたのだけれど。

かつてはフリーランスモデルから届くことが多かったが、今回は撮影会に所属しているモデルだった。
今後、自分は同じ所属先のモデルたちに対して、フィルターをかけて見るようになるのは当然だろう。
また、主催者側には、自分たちの撮影会のブランドをもっと大事にしてもらいたいとも思う。

不思議なものだ。モデルや撮影会側は、カメラマンから安易にDMを送ることを諫めるような発信をしている。
その一方で、モデル側からの営業DMは許されるような空気があるのは、どうしてなのだろう。
これも、女性側の言動だけが甘く扱われる、不平等な空気の一つなのだろうか。

比べるのも妙だが、最近では夜のお店で働く女性からも、露骨な営業連絡を受けることが少なくなった。少なくとも、営業の仕方については、夜のお店の界隈のほうが成熟している気がする。
『お店に来てください』と言うだけでは、かえって客を遠ざける。そんな当たり前のことを、彼女たちは学んだのだろう。

それに比べて、ポトレ界隈の住人たちは学びが少ないように思う。
モデル側の要求や言動だけが当然のものとして受け入れられ、撮影者側の不快感や負担は軽く扱われる。
一例として、モデルが撮影をキャンセルしても金銭的な負担はないのに、撮影者側がキャンセルすると対価を請求されるのが、なぜか一般的だ。
そんな空気に嫌気が差して、界隈から去っていく人も増えているように見える。自分の界隈への気持ちが薄れ続けていることも間違いない。

昨日、フリーのモデルが、馴染みのカメラマンから盗撮されたと訴える投稿をXで見かけた。いろいろな意味で、またかと思った。
正直、このようなトラブルは今後もなくならないだろう。

盗撮をした側が悪いのは当たり前のことだし、被害を公にするかどうかは、本人が決めることだ。
ただ、その種の投稿を見るたびに、真面目に撮影している男性まで疑われるだけでなく、ポトレ界隈全体が世間から疑いの目で見られる空気が、また強まるだろう。

モデルたち自身も、結局はその界隈の住人として、同じような目で見られることになる。発信することで生じる、そうした影響にまで思いを巡らせることはないのだろうか。
個人間で起きたことのはずなのに、結局は界隈全体への不信だけが積み上がっていく。自分は、そこまで配慮の及ばない人が多いことにも疲れている。

全員がそうだとは言わないが、一部のフリーランスモデルを見ていると、いったい何を売り、何に対価を求めているのだろうと思うことがある。
決して安くない料金を当然のように提示するのなら、その対価に見合う時間や表現を返そうという意識も必要なはずだ。
ところが、要求の多さに比べてその意識が見えない人も少なくない。

撮影会もフリーランスモデルも自分が知る限り、モデルの拘束時間毎に料金が発生する。
撮影会は難しいだろうが、フリーランスのモデルたちはそのような契約を少しでも見直す思考はないのだろうか。

自分がポトレを撮り始めたころは、こちらから撮影を依頼しても無視されることが珍しくなかった。
もちろん、当時の自分が無視された理由は少し理解できる。撮影技術が貧弱だったからだ。年頃の女性たちが、低い技術で撮影された写真をSNSで公開されたくないという気持ちはわかる。
だが、そうしたリスクも含めて、彼女たちは決して安くない対価を受け取っているはずでもある。

ポトレ界隈から芸能事務所に所属するモデルも少なくない。そのたびに、過去にSNSへ投稿された写真の削除依頼が出される。そんな光景を見ることにも飽きてしまった。
だが、さらに呆れたのは、事務所を退所したあとに再び撮影会へ出戻ったモデルがいたことだ。そして、そのモデルを以前と変わらず撮り続けるカメラマンがいることにも呆れた。
写真の削除依頼を受けたときには、愚痴めいたことをSNSへ書いていたのに、どうして出戻ってきた彼女を再び撮影するのだろう。

懲りない界隈の人たちに呆れることにも、そろそろ飽きつつある。
ポトレを撮ることには、まだ飽きていないけれど。

今日の写真のモデルはみりんさん。

日々の鮮度

このblogを始めたころは、毎日のように更新していた。
そのことを友人とグラスを傾けながら話していたとき、自分を暇人扱いするようなニュアンスのことを言われてしまった。

自分が今でも覚えているということは、それだけ引っかかったのだろう。今さら本人に尋ねても、覚えていないと言われるのが関の山だ。
そんなことも、自分が酒席に参加する機会を減らしている理由の一つである。

今月になってから、blogの更新頻度が落ちている。
明確な目標を決めているわけではないが、週に二回、月に八回くらいは更新したいとなんとなく思っている。だが、今月は18日の今日現在、この記事を含めても三回目だ。

理由はシンプルで、気持ちの問題だ。
文芸同人誌に参加して小説を書いていたころもそうだったが、自分は気分が落ち込みすぎると、まったく文章を書けなくなってしまう。特に先週の前半はひどかった。

そのときに比べれば、気持ちは少しずつ回復しつつある。
きっかけは、先週末に名古屋の自宅へ一時帰宅したことだ。二拠点生活をしていてよかった。

不思議なものだ。いつもと違う景色を見たり、普段は会えない人に会ったりするだけで、気持ちがリフレッシュされることがある。それは自分だけではないだろう。

一時帰宅中のワンショット。

今年は講師としての登壇が始まってからも、気持ちは比較的落ち着いていた。マンションでの機能的な暮らしに慣れるにつれて、自宅に戻りたいとさえ思わなくなっていった。
例年よりも広く、少しリッチな部屋を借りていることも影響していたのかもしれない。

だが、武蔵野での暮らしに慣れると、日々の鮮度が少しずつ失われていった。知らないうちにストレスをため込んでいたような気がする。
それが、あることをきっかけに表面化し、自分が疲弊していたことを強く自覚させられたのだろう。

少しだけ気持ちが上向きつつあるとはいえ、未現像のポトレのデータはまだまだ山積みだ。FXにおいても、EAの改修どころか、スキャルピングに取り組む時間すらままならない。

もちろん、夏が苦手なことも影響しているのだろう。
休んでいても、集中力や体力が思うように回復しない。それを加齢のせいだと言われれば、素直に受け入れるしかないのだろうけれど。

誰かが今すぐに欲しいものをくれるというのであれば、お金と健康と時間と体力が欲しい。
それらを自由にできるのであれば、自分の欲望を浪費することができるのに。
だが、実際にそんなことはあるはずもない。

今日の写真のモデルは寺尾 彗さん。

現在地

今更ながら、このブログの目的を改めて書いておこうと思う。自分にとって一番の読者は、大人になったときの娘である。
自分が死んだあとに、父親がどんな人物だったのかを振り返るヒントになればと思って書いている。だから、これまで書き続けてこられたのだと思う。

正直、娘が生まれたときの気持ちは微妙だった。男だから、彼女が生まれたときに自分の身体を痛めたわけでもない。その瞬間に何かを失ったとか、得たとかいう感覚はまったくなかった。
親としてやっていけるのか自信がなくて、不安しかなかったことを今でも覚えている。

だが、不思議なものだ。彼女は彼女なりに自分のことを親として扱ってくれて、そのことが自分を少しだけ父親らしくさせてくれた。
寺社や身内の墓参りなどで合掌するときも、彼女のことまでお願いするのがいつの間にか当たり前になっている。
今まで何人もの女性を好きになってきたが、娘以上に大切に思えた人物はいなかったし、おそらくこれからも現れないだろう。
そんなことを彼女本人に伝えたことは一度もない。母親よりも父親のほうが、そういうことを口にしない傾向があるのかもしれない。
だからこそ、素の自分を文章に書けてきた気がするし、今日も自分を隠さずに書き散らかしたい。

今の自分の精神状態は絶不調だ。
逆に、これまでの人生で絶好調だったことなどあったのだろうか。そう考えると少し諦観もできそうだが、突き詰めて考えると、自分の人生はこれまでもこの先も、生きづらさから逃れられないのかもしれない。
その生きづらさは、自分が性善説に囚われて逃れられないからではないかと、最近になって考えられるようになった。
他人のことを勝手に信じ込み、失望して傷つくことを繰り返し、これから先もまた繰り返していくのだろう。
だったら、いっそ、などと思うほどの勇気もないのが、自分らしくて虚しい。

具体的には、仕事のことを考えても、趣味のポトレのことを考えても、このごろは心がざわついて仕方がない。
ポトレ界隈の状況は自分を失望させ続けているだけだが、仕事のほうは直近まで違っていたので、油断していた分だけ闇落ちしている。今年度の講師としての登壇は、びっくりするほど平穏だったからだ。
だが、その平和な日々も終わろうとしている。今年は自分が名指しで非難されるようなことはなかったが、他人のせいで自分の心の平穏が乱されようとしている。
誰のせいでもないと言いたいけれど、明らかに誰かのせいだと自分は思う。

ここ数日、よく思う。もし来年度の登壇依頼があったら、一度白紙で考え直そう、と。講師の仕事はコミュニケーションの負荷が高すぎるからだ。
他人と比べても、自分ほどの人間嫌いはなかなかいないと思う。
仕事上の人間関係には深入りしないよう気をつけているつもりなのに、それでも近づいてしまうのは何なのだろう。

人嫌いなのだから、いっそのこと女性も嫌いになれれば、ある意味ではすっきりするはずなのだが、それもできない自分の勝手さも嫌いだ。

今日の写真のモデルは木村梨乃さん

ファインダー越しの蛙化

七月最初の土曜日だった昨日、江の島まで出かけてきた。撮影会に参加するためだ。
借りているマンションから江の島までは、電車で一時間半くらい。自宅から知多の海まで行くのに比べると、アクセスはかなり便利だ。
なぜ名鉄は内海駅を海岸線から離れた、あんな観光に不向きな場所に作ったのだろう。

江の島は一昨年以来だった。前回も今回と同じように撮影会に参加するために訪れていたが、その二年のあいだにもいくつか変わったことがあった。
まず、変な話だが、前回の自分は江の島を江の島としてきちんと認識していなかった気がする。サザンやTUBEの楽曲に出てくる『江の島』とは違う場所だと思いこんでいた。
そのときに撮影した女性は被写体を卒業し、彼女が所属していた撮影会も、他の撮影会と合併して新たな撮影会になった。
昨日参加したその撮影会では、一枠が90分だった。二年前は一枠180分、三時間だったことが懐かしい。
モデルと二人で片瀬江ノ島駅から江ノ電に乗り、撮影場所を探したことが、今でも新鮮な記憶として残っている。

それでも、いくら素敵な女性が相手だったとしても、二人きりで三時間も一緒に過ごすのは疲れる。どこかで自分を繕っているからなのだろう。
だが、そんな気持ちにまだ慣れない自分が、ちょっぴり愛おしかったりもする。自分の中にまだ中二っぽくて純なところが残っている証だとも考えられる。
自らのビジュアルを仕事の道具にしている異性を前にして、そんなふうに考えてしまうのは、女性よりも男のほうが多いのではないだろうか。

昨日、撮影したモデルの一人が、かつてコンカフェで働いていたことを話した。ポトレ界隈では珍しくない話なのかもしれないが、その言葉を聞いてから二人のあいだの空気が変わった気がした。
というか、少なくとも自分の受け取り方が変わってしまった。ファインダー越しの彼女が、それまでとは違って見えたのだ。

一昨年、江の島で撮影したモデルもコンカフェで働いていたことを知っていたが、昨日のような気持ちは抱かなかった。その差は何だろう。
昨日の夕方に撮影した彼女からSNSのDMでお礼が届いたのだが、その文面がを読んでいるとなぜか寂しさを感じてしまった。そう受け取ってしまう自分の側の問題なのかもしれないけれど。

おそらく自分は、女性の自然な魅力を撮りたくてポトレを続けているのだと思う。
自分がイメージしているその「自然」が、彼女たち本来の自然とはかけ離れていることも、頭の片隅では理解しているつもりだ。
それでも、その自然に自分の女性への憧憬を重ねた耽美的な写真を撮りたい。
だが、そのギャップは埋まるどころか、むしろ広がっているようにも思う。
それは、何かを作り出すことの苦しみの一つなのだろうか。それとも寂しいオッサンの勘違いなのだろうか。

今日の写真のモデルはほのさん。