淡白マスヲのたんぱく宣言 

アラフィフのオッサンの雑記。夜遊び、芸能ネタ、日常的なことから社会的なことまでを、広く浅く、そして薄い視点で書くので気楽に読んでください。

平成最後の夏の終わりに

 仕事からの帰りに、雷雨に会った。最寄り駅から家までの間、雨に濡れながら自転車のペダルを漕いでいると、雷の音に打ち消されそうな、コオロギの鳴き声が聞こえてきた。
 今日で8月も終わり。予報では9月からは猛暑も和らぎ、過ごしやすくなるようだ。平成最後の夏も過ぎようとしている。

 今年の夏、特にお盆から施餓鬼の際に墓参りをする時まで祖父、祖母と父のことを例年よりもよく考えた。
 物心を着いたころから3人とは、実家で生活をともにしたが、今はもうこの世に居ない。
 祖父、祖母は大正の一桁、父は戦中の昭和生まれ。3人は昭和の戦争を肌で感じた、自分にとって数少ない身内。

 祖父は父や祖母に比べれば、口数が少ない方だった。それでも、祖父が大陸に出兵していることを聞いていた。
 終戦間際には二度目の赤紙*1が来ていたことを、祖母からも聞いたことがある。
 その時の夫婦2人の気持ちは、どのようなものだっただろう?
 ちなみに、祖父祖母ともに平成の世まで、何とか生きることができた。
 父も平成で亡くなったので、寿命が短かったのではないかと、今でも少し寂しく思う。

 子供のころから、戦中戦争直後のことをよく聞いた。皆、戦争のことを肯定的に捉えていなかった。
 戦中には名古屋の下町に居を構えていた淡泊家。だが、空襲でその家は焼けてしまったそうだ。
 仕方なく、そのころはまだ名古屋市外だった郊外へ逃れてきたが、その時にはまだ実家に屋根がなかったと、父からよく聞いた。
 晩酌の際に時々、夜寝るときには星が見えたことを自虐ネタにして笑い飛ばして いたものだ。

 戦争が終わっても、食べるものにはかなり苦労したようだ。そのせいで、父は酒のみだったのに甘いものが好きだったし、何より肉料理には目がなかった。
 戦後に生まれた母は自作農家育ちのために、それほど食べるものに困ったことはないらしい。
 そのせいか、母は甘いものや肉にはそれほど執着しない。環境が食べ物の好みに与える影響は、大きいのだろう。

 戦争によって住居が失われ、食べるものにも苦労した3人。そんな3人から直に戦争への思いを聞いて育った自分。当然、平和が続くことへの願いは自然に培われた。

 来年からは元号が変わり新しい時代になる。そんな新しい時代に生まれてくる人たちに、昭和の戦争のことを伝えるのは次第に難しくなっていくだろう。

 生前、祖父や祖母に大正時代のことを聞いても今ひとつピンとこなかったからだ。昭和生まれの自分にとって、ひとつ前の元号の時代でも。
 二つ前の元号の時代を想像するのは、かなり困難だろう。それでも、彼らたちに少しでも何かしら伝える想いを大事にしたいと思って、今この文章を書いている。
 自分は経験していないが、身内から聞いた悲しい事実があった時代のことを。

*1:軍への召集令状のこと。