今日は朝から冷たい雨。通勤のために自宅から最寄り駅まで裏路地を歩くと、ある民家の庭先の梅の樹が雨に打たれて花びらを散らしていた。散った花びらは側溝まで雨水に流されて、小さな花筏を作っていた。
今日は、今の現場の最終勤務日。持ち帰る荷物が多くなりそうな日に、傘が要るほどの雨が降るとはついていない。
自席に着くなり、菓子パン、カップスープとコーヒーの簡単な朝食を取った。花粉症の薬を昨日、自席のキャビネットに忘れてしまったからだ。強い服薬剤は食後に飲まないと、身体に触ることに気をつかってのことだ。
今の現場では自分の斜め前に座る男性が、毎朝自席で朝食を食べている。最初見たときには眉を潜めたが、最終日にはすっかり自分も彼と同類となっていた。
食後に花粉症の薬を飲むと、キャビネットの整理をはじめた。クリアファイルやクリップで閉じてある書類をばらして、廃棄した。
現場によっては、ノスタルジーに浸ることもある作業だが、今の現場ではそんな感情は全く感じなかった。
キャビネットの整理が終わると、隣に座る委託元のリーダーから簡単な実作業を依頼された。おかげで午前中、少しは退屈しのぎにはなった。
午後からは全くすることが無くなった。隣のリーダーを含めた自チームの2人が会議に出席するために、離席した。
自チームの残りの1人も退屈なのか、何かと自分に話しかけてきたが、花粉症の症状が酷くなってきたのでほとんど生返事をしていた。
産まれてこのかた、こんなに花粉症で苦痛を感じている年は初めてだ。当初は風邪をひいたと考えていたので、総合感冒薬を飲んでいたが症状はあまり変わらなかった。
昨日、心療内科の処方をお願いした薬局で花粉症の薬を買って飲み始めたら症状に改善がみられたので、花粉症だということを自覚した。
自分の症状は鼻づまりや目の痒みよりも、喉が一番気になっている。次に、身体の重さを覚えた。当初は、何度も検温したほどだ。
花粉症の薬箱に、1日2回の服薬で効果が見込めると説明してあったが、午後になると辛くなってきた。室内に居るにも関わらず。
鼻づまり用ののど飴が切れたこともあり、コンビニまで出かけた。のど飴とマスクを買い求めるために。
コンビニからオフィスに戻ると自チームのメンバーは誰も居なかった。
その後、自分が半年間使用したパソコンのデータ消去をはじめた。といっても、CDをパソコンで起動すると後は何もすることがない。状態の経過を見守るだけだ。
定時を少し過ぎたころ、自チームのリーダーにプロパー社員への挨拶を促された。自分が一言挨拶をすると、リーダーは言った。それだけ、と。
挨拶はシンプルにすることを心掛けている、自分。多くを話すこと自体がトラブルの原因になることを今までの経験で知ったからだ。
挨拶後、リーダーにセキュリティーカードを渡して、オフィスから廊下まで送ってもらった、その時だった。彼が口火を切ったのだ。
言うか言わないか迷ったけれど、と前置きをして。大抵の場合、このような前置きがあった場合にはろくな言葉が続かない。今日もその通りになった。
何故プロパー社員に謝らなかったのか、と。最初、自分は意味がわからなかった。話を聞き続けると、彼の言いたいことが少しは、自分に入ってきた。
先日、リーダーの作業を自分が手伝った際に、手違いであるテスト環境を壊してしまったことに自分が言及しなかったことが、彼の怒りに触れたようだ。彼は続けた、反省はしていないのか、と。
混乱しながらも、正直に答えた。反省はしていない、と。すると、リーダーは詰問の言葉を次々と投げかけてきたが、反省できる道理なんかない。
自分は彼の指示で作業を行ったのだ。彼がリーダーとして、自分を含めたチーム内の作業者全員をマネージメントしていれば、そのようなハプニングは起こらなかったからだ。
彼は管理者であり指示者でもあるのに、その責任を負うつもりがないことに自分は怒りを覚えずにはいられなかったが、我慢した。
そのことにこちらが言及すれば、相手を論破できるかもしれなかったが、この期に及んで何かが好転する訳でもないし、ただ自分の帰宅時間が遅くなるだけだ。
水掛け論になるから、と自分は一言残してその場を去った。リーダーも自分の背中に罵声を浴びせるような子供じみた態度を示さなかったことに、少しはほっとした。
自分は父親が死んでから人に容易く謝ること、もっと言うならば悪く思っていないのに、悪びれた風をして謝ったフリをすることに気をつけている。
父の死期が迫っている中、妻にお金のことで心からお願いしても聞き入れてもらえなかったから。その時はとても辛かったが、今思うと逆説的に妻は貴いことを教えてくれたと思う。
お金やお金を手に入れるための手段の仕事において、自分に非が無いのに頭を下げても意味がないことを。人に頭を下げるときは、もっと大事な時ではならないと。
今朝から降っていた雨は、自分にとって涙雨。鬱積した思いから解放された、嬉しさの涙だと思っている。