淡白マスヲのたんぱく宣言 

アラフィフのオッサンの雑記。広く浅く、そして薄い視点で気楽に書いてマース。

他人が変わることに期待するよりも自分が変わる方が楽

 ここ何日か10年来の友人から、何度か電話で同じ相談を受けた。その相談とは仕事のことについて。その友人は女性で、今は中間管理職。
 彼女の相談というか愚痴は、使えない上司と育たない部下というステレオタイプのものだ。

 1回くらいの電話であれば、自分の考えを押し殺してある程度は聞き役に徹することはできるが、それが2回目、3回目ともなるとだんだん難しくなってくる。
 相手が自分の考えや正論を求めていないことはわかっているのだが、どうしても素直に相槌を打ち続けることができなくなってしまうのが、自分の性分だ。

 彼女の旦那も自分の友人だ。旦那も職場の愚痴で、まわりの人間に対して使えないということを、口にしたことを度々今までに聞かされた。
 仕事は最低限度のことさえ行えば良いという、ある意味ではサラリーマンにとって究極の教えを悟った自分と彼ら夫婦は、根本的に価値観が違う。

 もっと言うならば、できる・できないという概念自体が本人の主観に基づいているというのが自分の考えだ。社会の構成員それぞれが主観で評価したり動いたら、息苦しい社会になってしまうのではないだろうか。
 そんな辛い社会を自分たちの後の世代に渡したくないと、最近は考える。そのように思わせてくれたのは、間違いなく自分を親にしてくれた娘のおかげだ。

 相談者の彼女には一昨日の電話で、自分の本音をそれなりに語った。どれだけ伝わったのかは微妙だし、いくらかは伝わったなんて、かいかぶらないようにしているつもりだが。
 上司や部下に変わってもらうなんてことを期待するよりも、自分自身が変わることを助言したのだ。相手に変化を促すよりも、自分が変わった方が早いし楽だ。それに相手に対しての変化を促そうとすると、大抵の場合は人間関係に軋轢も生む。
 自分が変われば視点も変わり、まわりの景色が変わって見えることを、ここ数年趣味によって気がつくことができたのだ。スキー、スノーボードと文章を再び書きはじめたことによって。

 高校生からの友人と呑んでいる時に、その友人が語った言葉を覚えている。彼が課長に昇進したばかりのころに次のようなニュアンスのことを愚痴ったのだ。
 所属している会社が駄目だとわかっているけれど、課長になれば出席できる会議などが増えるので、視野が広がり駄目だと思っている会社をいい意味で再評価できるかもしれないと期待していたら、課長になってみた自分の会社は同じように駄目なままに見えた、と。

 その言葉を聞いたときには、それほど考えることはなかったが、最近になって考え直している。
 昇進しても自分自身が変わっていなければ、見える景色は変わらないはずだと。