淡白マスヲのたんぱく宣言 

アラフィフのオッサンの雑記。広く浅く、そして薄い視点で気楽に書いてマース。

サイドB

 最近、よく思う事がある。自分の人生が折り返しを過ぎたのではないかと。
 自分たちの世代の平均年令はいくつになるかわからないが、今の平均年令であればその半分は過ぎてしまった。
 自分たちがシニアと呼ばれるころになれば、多少は平均年令が伸びるとは思うが、それでも男性の平均寿命が100歳を超すことはないだろう。

 父親とその両親は癌で命を落としているので、自分も癌との戦いで人生を終えるかもしれない。
 だとすれば、自分は平均寿命よりも長く生きられないかもしれない。
 運がよくても90歳くらいの寿命ではないかと、明確な根拠もなく考えている。

 自分の死期が90歳だと仮定すると、自分に残された時間はあと43年間。
 今10歳の一人娘が計算上は53歳になっているはずだが、彼女がオバサンになっている姿が上手く想像できない。自分がヨボヨボの爺になって、何をするのにも覚束なくなっているのをイメージするよりも。

 加速する少子高齢化の処方箋として、年金引き上げとそれに伴う定年引き上げの話が、いたるところで聞かれるようになった、昨今。自分の本音を言えば、とんでもない話だ。
 怠惰ではあるが、働くことをそれほど疎ましく思っているわけではない。
 自分が納得していないことや、嫌いな人間に対して頭を下げることが、ただ嫌なだけだ。ほんの少しの身銭を得るためだけに。

 仮に働くことを通して自己表現ができ、さらに他人から自分の存在が肯定的に取られるようなことにでもなっていれば、話は全く違っているかもしれない。
 ただ、今のような環境で60歳を超しても働いていたとするならば辛いだろうし、せつないだろう。

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昨日、豊田市内の現場から名古屋支社へ帰社する際にスマホで撮った写真。
 自分の人生が後半戦に突入していることを痛感するこのごろ。というか、そのように考えるように心掛けている。
 47年間生きてきて、いろいろな意味で産まれたところから、遠く離れた場所まで来たと思う。
 これからの先の人生は、自分が産まれた場所に戻っていくことが、定めであると考えている。例え、その場所に辿り着くことができずに、息絶えたとしても。

 こんなことを書き綴っていると、ネガティブだと思う読者もいるかもしれない。
 だが、書いている本人は全くそう思っていない。死を意識することで生きている自分、そして残されている時間をより自覚することができていると信じて疑わない。
 誰の物でもない、自分だけの人生をより強く抱きしめることが、大事だと思う。他人からどう思われようが。

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今日の写真は加藤凪海さん。パレット撮影会にて撮影。ちなみに大阪ロケです。