あるラジオ番組を聴いていたら、知的という言葉の定義にパーソナリティーが触れていたのが印象に残った。知的とは物事の解決に暴力的手段を考えないこと、だそうだ。
もっとも、パーソナリティー自身のオリジナリティーな言葉ではなく、ある作家からの受け売りだと説明していた。引用したということは、本人にとって意味のあるインプットだったと言えるだろう。
パーソナリティーがアウトプットしたものが自分へインプットされ、自分がインプットされたものがこのblogの読者へとアウトプットされる。
人から人へ伝播していく言葉には、それぞれの個人に対して何かしら訴えるものがあるのだろう、きっと。
知的の定義に何故自分が引っかかったのかを考えてみた。暴力的手段での解決、という言葉の連なりに身につまされた。
また、それらを考慮しないということにも。手段として用いないだけでなく、暴力的なものを候補のひとつにも決して入れないというのは、リベラルだと言わざるを得ない。
ここ数年の自分の言動や心持ちからすると、痛いことだらけだ。思い当たる節があるどころか、節だらけだからだ。
といっても、いい歳をして誰かに手を出したりした訳ではない。一人暮らしなので物理的に家族に対して暴力を振るうことは無理だ。
親のしつけが最低限行き届いているのか、そんなことを考えたことすらないが自分の友人には一人、DV夫がいる。妻や自分の子供に対して肉体的な苦痛を与えているらしいのだ。
DVをはたらく人物の友人には、DVをする人物が多いというのをある情報バラエティー番組で視た時、少し心がざわついた。ひょっとしたら、自分の中の奥底には暴力的なものが潜んでいるかもしれないと、考えてしまったからだ。
幸いにしてというか、幸か不幸かはわからないがDV夫である友人とはLINE上でつまらない話題で衝突して以来、連絡をとらなくなって数ヶ月経っている。
彼の妻とも昔からの友人だが、そんな彼女からは先週も電話の連絡があったばかりだが。
ここ最近、自分が他人とコミュニケーションを図る中では、丁寧さがなくなっていることは自覚しているし、ある意味仕方が無いと言い聞かせて、自己弁護してきたように思う。
相手が自分へ伝えようとしていることをあからさまに無視したり、無視しようと思うことも若い時に比べると多くなっている。
悲しいことだが若い時に比べると、自身に対してかなり無理が効かなくなっているのを感じている。それは体力の低下だけでなく感情の劣化だと実感しているが、どちらの主原因も加齢によるものだとなんとなく考えていた。
だが、自分よりも年上の人間の中にも、他人と丁寧に対峙している人は確かにいるのだから、加齢を理由にしてそのことから逃げていては駄目な気もしてきた。
薄曇りの日曜日の朝にぼんやりと、これからは気をつけたいとほんの少しだけ思った。