今週の日曜日、久しぶりに弟の話を聞いた。
酔っていたこともあってか、仕事上の愚痴を中心につまらない話を偉そうに語っていた弟。
兄が買ってきてくれた特上と特選の牛肉を、母親が用意したしゃぶしゃぶで食べながら。
他人が買ってきた美味しい肉を食べながらお酒を呑み、好き勝手なことを誰かに聞いてもらえるなんて、弟にとっては悪くない夜だっただろう。
兄としては楽しくなかった。どちらかというと、不愉快だった。
仕事の愚痴や不満などの話はお金を使って聞いてもらうべきだというのが自分の考え。
バー、クラブ、ラウンジ、キャバクラなどの店はそのためにもあるのだと思う。それらは皆のためのガス抜きの場所。
ちなみに、自分がその考えに辿り着いたのは40代。
すると、どうだろう。次第にそれらの店には足が遠のくようになった。
もちろん、友人に話を聞いてもらって不満を解消することが今でもあるが、以前に比べるとかなり減った。
ある夜、昔からの友人に自分が際限なく仕事について愚痴っていたら、いい加減にしろと激しく突っ込まれたのがきっかけだった。
やっぱり、持つべきものは友。
さて、話を戻そう。
しらけて話を聞いていたのを弟が感づいたようで人と人との関わり合いに興味がないのかと、目の前の酔っ払いが絡んできた。
答えるまでもない。自分は他人とのコミュニケーションにはポジティブなイメージはほとんど抱けないからだ。
しかも、それが仕事上の人間関係だとしたら。
他人が他人の内面の何かを理解したり、共感することは奇跡だと思う。
相手の何かがわかったようなつもりでも、勘違いをしたり、されたりすることがほとんど。
人と人とは持って産まれたものや、産まれてからの経験が違っているので当然だろう。
自分だって自身のことを伝えることが下手だと、歳を重ねる毎に思い知らされている。
誤解や勘違いされることにも、すっかり慣れてしまった。
自分がポートレートを撮っている理由の一つは、自分の何かをあらわしたいから。
写真でしか、ポートレートでしか表現できないものがあるのではないかと、なんとなく思っている。
希に小説を書くのも、同じような理由なのかもしれない。
小説と同じくポートレートは自分にとってはフィクションだから。