今週はノーベル賞の各受賞者が発表される。というわけで、久しぶりにゆるいテーマをゆるく書いてみたい。
なぜって? ノーベル文学賞候補として例年騒ぎ立てられている村上春樹が、エッセイの中で次のようなニュアンスのことを書いていたのを思いだしたからだ。ゆるいテーマのエッセイを書くのは大変なことだ、と。
世界的な文豪と自分を並べて考えるのはずうずうしいにも程があるとは思うが。
このblogを読んでくれているそれぞれの読者は何歳だろう? 自分がアラフィフになったので、オフラインで自分と接点がある読者は自分と近い年代だろうが、オンラインで自分と接点を持った人はどんな年代の人がいるのだろうか。
今日はあえて、40代50代の人に聞いてみたいことがある。次の二つの言葉を使ったことがあるのかを。使ったことがなければ、その言葉の意味がわかるのかを。
その二つの言葉とは、『ふぁぼられる』と『らぷりつ』。
自分は使ったことがなかったし、それらの言葉を見たときに意味がわからなかったので、Google先生に聞いてみた。
話は少し脱線するが、Google先生という言葉を今の現場で知り合った20代のエンジニアに使ったときだった。意味が通じるか少々不安だったが、普通に通じたのでホッとしたことが印象に残っている。
『ふぁぼられる』と『らぷりつ』の言葉を自分が最初に見たのはTwitter。メイド喫茶に初めて遊びに行ったとき、メイドさんから言われるがまま、アカウントを作った。
その後、しばらくは休眠状態になっていたアカウントだがこのblogを書きはじめた折に、新しい記事がアップする告知に使いはじめた。
ポートレートの撮影に挑戦を始めた今年からは、新しく撮った写真のアピアランスや他のカメラマンやモデルさんとの交流手段にも使い始めた。
気がつくと昔の自分から考えたら、びっくりするほどTwitterを使っていた。フォローしている人もフォロワーもオフラインでは簡単に繋がりを持てなさそうな人がいるのが、興味深い。
その中での代表的な人たちは、ミスコンのファイナリストたちだ。
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女性好きを公表しているのにも関わらず、どちらかと言うと、ちょっと前までの自分はミスコンについては肯定的に見ていなかった。別にフェミニストを気取っているわけではないのだが、どうしてだったのだろう?
ミスコンの選考をくぐり抜けていく彼女たちのことを自分とは全く別次元な人間だと考えて、ひがんでいたのかもしれない。
だが、意識しないうちに彼女たちとネット上で少しは交流を持つようになった。そのことを過大評価している訳ではない。フォロワーやフォローしている人は友達でもないし、自分を肯定してくれている訳ではないと捉えているからだ。
それでも、彼女たちの何人かには投票した。というか、思わず投票してしまった。投票した彼女たちには少なくとも何かしらのシンパシーを自分は感じたからだ。他人から見たら、親子ほど離れている彼女たちに……。