初めてパーキンソン病の患者と少しだけど触れあった。灯油の巡回販売中に。
ポリタンクに給油している間、朝の冷え込んだ寒さに震えているように感じたので口に出したら、本人が自身の病気のことをカミングアウトしたのだ。
同じエリアで今日、目が不自由な婦人が新しいお客になってくれた。
彼女は年季が入った公営住宅に住んでいるが、一人暮らしのようにも見えた。
自宅と実家の間くらいの距離に、名古屋の市営住宅がある。市バスのバスターミナルもあるほどの住宅だが、自分の友人がかつて、その地のことを姨捨山のようだと言ったことを、この文章を書いている中で思い出した。
灯油の巡回販売をしていると、時々フィクションであるかのような光景や場面に時折遭遇するが、もちろん全てが真実だ。
身体が不自由な老人が、交通が不便な僻地の公営住宅に住んでいる。そんなことを肌感覚でしっかりと感じている人が、世の中にどれくらいいるのだろう?
もちろん、ちょっと前までの自分も知らなかった一人だ。
彼らが社会から切り捨てられている気はするが、そのことが全く他人事とは思えない。
一人暮らしをしていることもあって、自分も誰にも感心をもたれずに老後を過ごすことだって、そんなに低い確率ではないだろう。
全くベクトルは違っているかもしれないが、灯油の巡回販売をするようになって、次のようなことも思わなくなった。
リタイアしたら、街から離れて静かに暮らしたいなんて。
体力が衰えて身体が弱っているはずの老後は、都会でないと暮らせないだろう。
自分が担当しているエリアは、高台になっている場所が多い。
そんな場所に住んでいるお客の中で、高齢を理由に免許を自主返納したことを自分に話したのは、一人や二人ではない。
彼らが住む丘にはかつて路線バスが走っていたが、廃止になったところもある。
地区によってはコミュニティーバスや乗り合いタクシーなどが用意されているが、住人は納得しているのだろうか。
例え、それらの原因の一部が彼らの選択に起因するとしても。 最後に今日の夕方、自分から灯油を買ってくれたお客の言葉を紹介して筆を置くことにする。
そのお客はシニアの女性。実家は名古屋駅の近く、明道町らしい。自分が名古屋に住んでいることを話すと、そう教えてくれたのだ。
続けてそのお客は口にした。なんでこんなところに住んでいるのだろう、と。